「左様でござったか。それにしてもあの熊造と伝助の両人、自分の主人を殺害するとは正に悪逆非道の権化みたいな輩(やから)ではありませんか」
と、重四朗は眼に涙まで浮かべて憤慨して見せるのだ。
「この土地に熊造と伝助両人が立ち廻っているのではないかと教えて下さいましたのは父と同じくあの当時、江戸上屋敷の留守居役でありました佐野喜左衛門様でございます。
何でも喜左衛門様の中間の一人がこの界隈で熊造達を目撃したという事でございますが ―― 」
私は恐らく彼らはあなた様を頼ってこの土地に参ったのではないかと想像するのです、と浪路は二重瞼の美しい黒瞳の中にふと猜疑(さいぎ)の色を滲ませてじっとうかがうように重四朗の表情を見つめるのだった。 |
「いかにも拙者の援助を求めて熊造達はここへ参った事がござる。しかしそのような大それた罪を犯して当地へ流れて来たという事は熊造の奴、一言も語らなかった。もし、その事実がわかっていたなら奴をおめおめその場より立ち去らす事はなかったのに」
いくらかの小遣いを与えてここより熊造達を追い立てたという事は返す返す残念であったと重四朗はさも口惜しげな表情を作って一芝居打つのである。
「では熊造と伝助の両人はまだこの土地のどこかに潜伏しているというわけでございますか」
「恐らく、まだここを立ち去っておりますまい。最速、拙者もうちの門弟達を使って奴等の居場所を探らせましょう」
「重四朗さま、浪路は何とお礼を申してよいやら」
ここで重四朗に逢えたという事は百人の味方を得た以上に心強く思います、と浪路は重四朗のその言葉を好意以外の何ものでもないと受け取って畳みに白魚のように美しい繊細な指先をついて礼をのべるのだったが、
「そのように両手までつく事はありますまい、浪路どの」
と、重四朗は優雅な匂いに満ちた浪路の情感的な美貌を見つめているうちにふと激情的なものが胸にこみ上げてきて思わず身を乗り出し、畳についた浪路の手を握りしめるのだった。
「何をなさいます」
瞬間、浪路はさっと身を引いて重四朗の手を払いのけた。
「何もそうここまで来てつれない態度をとる事はあるまい。旅の恥はかき捨てと申すではないか。また、魚心あれば水心。な、浪路どの。拙者はあの時、一眼、浪路どのを見てからというもの、人妻という事は充分、承知しておりながら
―― 」
寝ては夢、起きてはうつつ幻の、と重四朗は必死な思いになって自分を忘れ、浪路に取りすがるようにまといついていくのだった。
どうしてこんなに急に衝動的な行為に出てしまったのか重四朗は自分でもわけがわからない。
このような山中に道場を建てても門弟はすべて浮世をくずれて来た浪人ばかり、それを近郷の博打(ばくち)打ちに用心棒として斡旋したり、雲助と共謀して人身売買みたいな真似をしたり、それでこれほど、気楽で愉快な渡世はないと自分では思っていても、やはり、浮世から隔離されてしまったという観念は耐えられないものだったのだろう。重四朗は浪路の抒情的な美貌に都の花の香を嗅ぐような懐かしさとそれにすがりたいような発作に似た心境に陥ったのだ。
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