「お茶を持って参りました」

 この道場では、一番の真面目人間である阿部万之助が盆に茶をのせて部屋の中へ入ってきたが、卓の前に膝を折って坐った浪路のうすら冷たい気品のある美貌をはっきり眼にすると、一瞬、金縛りに遭ったようにその場に棒立ちになった。

「浪路どのと申される拙者の古くからの知り合いだ。御主人は浜松の青山家の剣術指導南番である戸山主膳と申されるお方である。以前は戸山氏について剣を学んだ事もある。その事はいつかお前にも話した事があったろう」

 つまり、このお方は拙者の師匠の奥様だと、重四朗は浪路を万之助に紹介し、

「この男は万之助と申して拙者の身の回りの世話をやいてくれる男でござる。剣術の腕前はからきし駄目だが、家計のやりくり、それに炊事、洗濯の才能もあり、この道場になくてはならぬ貴重な男でござる」

 と、浪路には、そんな風に万之助をひき合わせた。

「おい、万之助、ちょっと」

 重四朗はふと立ち上がって万之助を道場に連れ出し彼の耳に口を寄せて、

「地下倉にいる熊造と伝助を裏口からそっと外へ逃がせ」

 と、小声でいった。

「あの二人はそこへ来ている浪路にとっては親の仇なのだ。浪路は熊造達二人を打ち果たすためにここへ来たのだ」

 万之助は硬化した表情になってうなずき、急いで地下倉の方へかけていった。

「いや、お待たせ致しました。えーと、熊造と伝助の事をおたずねでございましたが、あの二人がどうかしましたか」

 と、重四朗は何喰わぬ顔をして浪路のそばにもどり、万之助が卓の上に置いて行った渋茶をガブッと一飲みした。

「あの両名のために父の善右衛門は江戸において殺害されました」

「え、何と、何と申されました」

 重四朗はわざわざ大仰に驚いて見せ、大きく目を瞠いた。

 浪路は酒井雅楽頭の江戸の上屋敷で留守居役であった父の善右衛門が自分の小者であった熊造と伝助のために殺害された顛末を語り、ようやく仇討ち許可を得て弟の菊之助の助太刀人として姫路を出発し、この土地までやって来たという事をくわしく重四朗に語るのだった。