濡れたような深味のある浪路の黒瞳にはっきり殺気が滲み出る。冷たく冴えた優雅な顔立ちに血の気が浮かんだとたん、あっと定次郎は大きく、後退した。
一瞬の隙を見つけた浪路は飛鳥のような素早さで自分の方より斬りこんで来たのである。
浪路の剣法は攻めより受けだと重四朗に聞かされていた定次郎は度肝を抜かれて二度三度、大きく刀を横に振った。
神変竜虎竜の道場では定次郎が何といっても一番腕が立ち、重四朗もいかに相手が浪路でもそう簡単に斬りこめまいと思っていたが、浪路に機先を制されて定次郎は足元まで乱れ、破れ障子のように隙だらけになってしまったのである。
定次郎を助けようとして重四朗は浪路に斬ってかかったが、間に合わなかった。
裾元を大きく乱して一瞬、先に斬りこんだ浪路の切っ先を受け損じて定次郎は、ギャーと大仰な悲鳴を上げた。
定次郎の片一方の耳が半分ばかり浪路の激しく打ち降ろした小太刀に斬り取られてしまったのである。
斬られた耳を押さえ、定次郎はもんどり打って地面に転がり、重四朗は浪路に体(たい)をかわされて宙を切った所、一回転した浪路の小太刀に尻の肉をえぐられた。
うわっ、と重四朗はだらしなく刀を投げ出して定次郎のそばに転倒する。
「無、無念だ。斬れ、一思いに斬ってくれっ」
女の剣さばきに不覚をとったと思うと、定次郎は口惜しく、情けなく、切られた耳のあたりを手で覆いながら駄々っ子のように足をばたつかせてわめいた。
一度ならず二度も浪路に不覚をとった重四朗などは声をはり上げて泣き出している。
「あなた達を斬るために上州に参ったのではありません。さ、失せなさい」 |
自分が斬らねばならぬのは父の仇である熊造と伝助なのだ。浪路はキッとした表情になって激しく肩で息づきながらいったが、その時、
「あっ、姉上っ」
浪人者二人と激しく渡り合っている姉の方を菊之助がおろおろして見ていた隙に熊造と伝助は土手の草の上を滑るようにして川の方へ逃げ出して行ったのである。
「おのれっ、待たぬかっ」
二人を追う菊之助のあとを追うようにして浪路も血刀を引き下げながら土手の下へ走ったが、熊造と伝助は黒い瀬をなして流れている暗い河の中へ頭から飛びこんだのだ。
「あっ」
と叫び、菊之助と浪路はその場に棒立ちとなった。せっかくここまで追いつめた仇に逃亡された口惜しさで菊之助も浪路もひきつった表情になる。
熊造も伝助も水泳術の心得はあるらしく、黒い水の上を抜き手を切って泳ぎ、また、深くもぐりこんだりしながら必死に逃げて行くのだ。 |
「ここまで来ながら仇を取り逃がすとは、姉上、申し訳ありません」
菊之助は地団駄を踏んで口惜しがるのだった。
ふと、うしろを見ると、浪路に耳を斬られた定次郎と臀部を斬られた重四朗が互いに抱き合うようにしながら、これもよろよろと土手の上に逃げていくのだ。
「おのれ、あの二人が邪魔だてしなければ ―― 」
菊之助は憤怒の色を顔面に浮かべ、刀を持ち直して二人のあとを追おうとしたが、
「おやめなさい、菊之助。あの二人は充分にこらしめてあります。命まで取る必要はありません」
と、叱咤するようにいった。
「無念な事をしましたが、熊造と伝助を討つ機会はなくなったわけではありません。この土地にいる事がはっきりした上は、もはや逃がしません。今日は一まず、宿に引き揚げる事に致しましょうl」
浪路は血のついた小太刀を懐紙で拭い、鞘に収めた。もう空はすっかり光を失って周囲には暗い影が射し、流れる川の音だけがはっきり聞こえている。 |
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