「ごめんくださいまし」

 と、その時、玄関で女の声がした。
こんな所へ女客が訪れるのは初めてのことで不思議に思いながら玄関へ出たが、とたんにハッとした。

「や、こ、これは、浪路どのではござらぬか」

 高貴で優雅な匂いに満ちた端正な浪路の容貌をそこに見た重四郎は妖しく胸が慄える。




「やはり重四郎様でございましたか」

 浪路は二重瞼の美しい深味のある瞳をじっと重四郎に注いで白蝋のようなとうたけた頬に柔らかい微笑を浮かべた。
 浪路は色変わりの縮緬に黒の丸帯を締め、水色の脚絆をつけて手に菅笠の旅姿である。


 「三年ぶりではござらぬか。いや、あの時はご主人の主膳殿に色々と厄介になり申した。いつか手紙で知らせた通り、手前もようやく芽が出て曲がりなりにもこのような道場の一つを構える身分に相成りました」

 と、重四郎はペラペラしゃべり出す。

 三年前、重四朗は浜松で戸山主膳道場の門人となり、主膳の妻の浪路を一眼見た時の衝撃は今でも覚えている。何という美しさだ。俺も男と生まれたからには一生涯に一度でいい、こんな女と寝てみたいものだと、しっとり濡れたように情感のある美しい浪路の容貌に心を乱し、人妻とは知りつつも矢も盾もたまらぬ思いで恋文まで出してしまったのだが、その美女が今、自分のすぐ前に立っている。
 何の目的で浪路がこの岩宿にまでやって来たか重四朗にはよくわかっているのだが、何よりも甘ずっぱい懐かしさのようなものが胸にこみ上げてくるのだ。

「ま、このような所で立ち話するのはおかしい。何はともあれ、むさい道場でござるが上がって下さいませぬか」

「いえ、実は弟の菊之助を宿で待たせてありますので、すぐにおいとまさせて頂きます。ぶしつけな事をおたずね致しますが、この地に元、大鳥家の中間を致しておりました熊造と伝助と申す両名、立ち廻ってはおりますまいか」


 そういった浪路の切れ長の美しい瞳にはふと燐光に似た妖しい光が走った。

「はて、熊造に伝助、はてはて」

 と、重四朗はわざと遠い記憶の糸をたぐるように長い顔をさすりながら小首をかしげた。

「この地のどこかに見かけたような、見かけなんだような ―― ま、ここで立ち話もまずかろう。上へお上がり下さい。色々とつもる話もござる」

 重四朗は獲物に食い下がる雲助のような昂ぶった気分になり、浪路の手をとらんばかりにしていった。