既に、二人の言い争いは喧噪の域に達していた。
「馬鹿な事を言うのもいい加減にしてくれ!
君は自分が何を言っているのか、わかっているのか!?」
夫が初めて見せる激昂の表情と剣幕に戸惑いつつも、
負けじと妻が言い返す。
「馬鹿なのは貴方の方です!
事の軽重を見誤っているのは、貴方の方ではありませんか!
ご自身と、私と。
どちらがより、大切な存在か。
世の中から失われてならない存在か。
その程度の事がわからない貴方ではないでしょう!?」
鬼の一団による退魔里の急襲の報を聞き、
身重の妻を置いて旅立とうとする夫に対し、
妻は頑として同行すると言い張ったのだ。
当初、夫の少年は妻の説得に穏やかな態度を崩さなかった。
結婚して以来。否。
出会ってから、一度たりとも、少年が女に対して言葉を荒げたことなどなかった。
共に夫婦とくらす日々の生活の中で、
食事の献立の嗜好、調度品の趣味の違いを理由に
ささやかな衝突が起きることもあるにはあったが、
それでも最後に折れるのは決まって夫の方であった。
しかし。
今回ばかりは、夫は譲らなかった。
やわらかい物腰であっても、かたくななまでに
「君がお腹に子を授かった、今。
君の命は君だけのものではない。同行は許さない」
という考えをひるがえそうとはしなかったのである。
そんな、年若の夫に対し、
ついに言ってはならない言葉をかけたのは、
妻の方であった。
「お腹の子など! 流れたところで、また作ればよいではありませんか!
いいえ、妻とて同じようなものです。
私が死んだところで、貴方は新しい妻を迎えれば、それでよろしいのです。
女子供の無事を願うよりも、まずは御身の命こそを大切になさいませ!」
当初。
夫は、妻の言葉をよく理解できないような様子であった。
半分ほど口を開けた、有り体に言えば、ポカンとした表情で、
間の抜けた木偶人形のような有様で立ちつくしていた。
麒麟児の誉れ高い、彼らしからぬ呆けた表情の夫に対し、
妻は内心で
『なぜ、この人はこのように簡単な事がわからないのか』
と苛立ちながらも、
つとめて笑顔で、噛み砕くように言い聞かす。
「よろしいですか?
『君の命は君だけのものではない』
この言葉は、私にではなく、貴方にこそふさわしいのです。
ご自身の才が、どれほど稀少なものか。
それはあなたとて、充分に理解できているでしょう?」
「文献に事跡と名称のみが残っている、失われた退魔の秘奥。
貴方は既に、それらの数々を復興し
誰もが使えるような術理として再構築しています。
それが、人と鬼との闘いの中で、どれほど稀少な能力か。
それができる人間が、貴方の他にどれだけいることか。
否、術者としての今後の伸びしろを考えれば、貴方の代わりなどいないのです」
「それに引き替え、私のような退魔剣師など、いくらでもおります。
確かに、剣の技量を問うなら、はばかりながら私とて
達人、名人、と呼ばれる事もある少数の一人ではあるでしょう。
ですが。
私程度に戦える退魔の剣師など、これから先、いくらでも現れてくるのです」
一気にそこまで言い切った後で、夫の手を強く握り。
すがるように、女退魔剣師は言った。
「こたびの鬼の襲来は、従来のものとは明らかに違うのは明白。
いかに貴方とて、不覚をとることがないとは言い切れません」
「貴方は、私よりもずっと大切なお方。
どうか、お願いします。
これまで通り、鬼との闘いでは、私に貴方を守らせてください。
私を連れて、不測の事態に備えてくださいまし」
ただただ懇願と哀願を繰り返すうち、
いつしか狂気と呼ぶべきモノを宿し始めた女の表情。
それを直視することがつらかったのだろう、
まだ少年の年頃の夫は、やがて妻と目を合わすこと叶わなくなり、
ついにうつむくだけとなってしまった。
しかし、やがて。
意を決したように、彼は妻の手を握り返し、力強く答えた。
「……でも。僕に、とっては。
君のお腹の子は。君と、僕の子は。
僕よりも、ずっと大切な、存在なんだ……」
そんな夫の言葉に対し、
妻が感じたのは喜びではなく、大きな失望であった。
―― この人は。
嗚呼、本当にこの人ときたら。
どうして、どうして。わかってくれないのか。
この人はもっと賢い人だと思っていたのに。
今回に限っては、もう分からず屋もいいところ。
どうして、当たり前の事を受け入れてくれないのか ――
失意はやがて怒りへと転じ、
ついに耐えきれなくなった妻は夫をなじり始めた。
「……これだけ言葉を尽くし、
道理を説いてもまだわからないとは情けない!
まるで、いつまでも欲しいオモチャに執着する子供のよう!」
口惜しげに、憎々しげに、
片手の拳で己の腹を何度も叩きながら、涙ながらに訴える。
「こんなもの、腹の中でまだふた月にも達していないこんなもの!
ただの肉の豆粒のような、こんなものために!」
「まだ生まれていない子などに、
何故、そこまで執着するのですか、貴方という人は!!」
魂のすべてを絞り出した痛切な声で、
もはやこれ以外に何も望まぬと、ひとつの願いを訴える。
「貴方を生かすために死ねるなら、それが私の幸せなのです!」
その言葉は。その言葉こそが。
夫にとっては、絶対に受け入れることができない、
決定的な『何か』であったにもかかわらず。
夫の顔色が一瞬にて変わる。
しかし、我を失った妻の目にはそれすら見えていなかった。
「結婚する際、貴方は私を
『幸せにする』 と約束してくれたじゃありませんか!?
ならば、今こそがその時です!
私の命を、ここで使うつもりで」
だが、ここで。全ての言葉を言い切る前に。
パン、と。
乾いた音が、妻の口上を遮っていた。
夫の平手打ちが、妻の頬を叩いていたのだった。
最初で最後の、夫の平手打ちが。
「命を……。
生まれてくる命を、何だと思っているのだ……」
ただ、それだけの言葉を、
何度も何度も繰り返しながら。
身を震わせるほどの、怒りと、失望と。
抑えることのできない哀しみを、涙と変えて目からこぼしながら。
退魔の夫は、妻の前で膝をつき、嗚咽していた。
年頃の少年らしく無力な様子で。
そんな夫の前で、妻はただ、
頬を手で押さえたまま力が抜けたように、床に腰を落としていた。
嗚咽する夫を前に、
謝るでもなく、慰めるでもなく。
先ほどまでの自分の言葉。
あれは、どこかが間違っていたのだろうかと。
虚ろな表情で、そんな事を考えていた。
いくら考えても、わからなかった。
否。
いくら考えようとしても、うまく頭が回らなかったのだ。
泣き続ける夫の前で、いつしか彼女もまた、
嗚咽を始めていたから。
「腹の子すら大切にできぬ莫迦者に、
大事なこの身を守らせることなどできるものか。
ここでひとり、大人しく待っているがいい」
落ち着きを取り戻してからは、いつもの彼だった。
ひとり手際よく荷造りし、妻の手を借りることなく旅支度を整えていく。
なおも言いすがろうとする妻に、一瞥すらくれることなく、
夫は冷然と言い放った。
「犬猫ですら、腹の中の我が子を慈しむというのに。
さきほどのおまえの言葉は、何だ。
鬼の口上、そのものだったではないか」
息を呑んで沈黙する妻。
そして最後に、
夫は有無を言わさぬ口調で妻に対し、言い放った。
「鬼との闘いに、
鬼のような女は連れていけない」
後は、何も言わず黙々と荷造りを続け。
やがて。
年相応の容姿とはそぐわない大人のような態度で、
いつものように、気負うでもなく、畏れるでもなく、
死地へと旅立っていた。
ただ、いつもと違っていたのは。
妻を連れていかず。
そして、戻ってはこなかった、ことだった。
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