聖戦士ユキの敗北 ( 20190519 )

真夜中の工事現場。
街の中心から少し離れた、解体途中のビジネスホテル。

『ァ゛ギィ゛……、……ア゛ッ゛……、……チ、チクショォオーーーー!!!!』

背中に蛾のような羽を生やした魔人が、小さな妖精が構えていた魔法の道具 『封印の小瓶』 に吸い込まれていく。

その様子を見て、他の魔人たちは一斉に奮い立つ。

戦いはここからが本番。

「あと三体……!」

ぐっと両手の拳を握りしめ、私は自身を鼓舞するように呟く。

先ほど打ち倒したのは、四体のうちの一体に過ぎない。

先に倒した一体の顛末、その封印の様子を最後まで見届けている余裕などないまま、私は残る眼前の魔物達を見据える。

今はまだ、敵は全て視界の中に収まっている。
ここは一気に攻め立てる方がいいのではないか。

実際、分散されては厄介だ。

夜風が、頬をなでる。
クールダウンされ、思考が冴えるのを自覚する。

見通しのきく屋外。
地の利は、まだこちらにある。

対する敵は、どうか。

このまま屋外で戦うか。
それとも、解体中の建物の中に逃げ込むか。

……どうやら、それを決めかねている。

落ち着きなく、目を泳がせている大型の魔人が2体。
その頭上で浮遊する翼が生えた中型の魔人が、1体。

3体のいずれもが、戦うか逃げるか、それを決断できていない様子。

その迷いを、突かない手はない。

「せぁっ」

意を決した私は地を蹴って前へと駆け出す。

敵に向かって一直線……にではなく、狙いは右斜め前に位置する鉄骨の足場。

組み上げられた途中の鉄骨を蹴り登り、上空4メートルほどの高さで浮遊する翼の魔物の眼前まで飛び上がってみせる。

『クァッ!?』

一気に目の前まで迫ってきた私に対して、翼を生やした魔物は烏のような鳴き声で驚愕するばかり。高みに身を置く限りは、安全圏だと油断していたのだろう。

イメージ通りに踵から放出されたエナジーが推進剤となり、私は瞬時に中空の敵の前に躍り出る。

「はぁあああっ…!!」

半円を描くような軌道で蹴りを放てば、それはすなわち強襲の一撃。

『ゲァッ!!??』

頭上から叩きつけられるような衝撃を嘴に受け、飛行体勢を崩した魔物が落下していく。

「逃がさない!!!」

落ちていく魔物を追うべく、空中でクルリと一回転してターン。
重力とエナジーの放出を組み合わせながら下方向に加速。

砲弾のごとき踏みつけの蹴りを落下中の魔物に撃ち込み、そのまま地面へと叩きつける。

『クケェァアアアアアアアッ!!』

夜に響き渡る、耳をふさぎたくなるような怪鳥音の絶叫。
脚の下で踏み砕かれた骨の感触。

その嫌な手応えと共に4体のうちの2体の制圧を確信する。

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けれど、2匹目の魔物を撃破した直後の、わずかな安堵が不覚となった。

「ユキっ、油断しちゃ駄目だ!!」

相棒である妖精の少年、フルールの叫びが聞こえた時には既に遅し。

ドォンッ!!
横殴りの衝撃が私を襲っていた。

「ぁぅぐっ…!」

例えるなら、視界の外からアクセル全開で突っ込んできた中型のトラック。

仲間をこれ以上 減らされてはなるものかと奮起した巨体の魔人が体当たりによって反撃を試みたのだった。

魔人の突進を真横から受ける形となり、そのまま建設現場のガレキの上を二度、三度と跳ねては転がる私。

青色の聖衣が砂によって汚れる。
じんわりと体の内側から鈍い痛みを感じながら、思わず頭を振った時。

再び遠くから届く、注意を喚起する叫び声。

「ユキ、早く立って! 次が来るッ!!」

相棒の妖精の少年、フルールの叫び。
小さな体なのに、よく響く声。

いつもその声に助けられる。

咄嗟に起き上がり、そのまま飛び跳ねるように一歩 二歩と後退すると、先程まで私が転がっていた場所に 巨大な水の塊が落下してくる。

バシャーンッ!という大きな破裂音と共に、周囲に広がる水しぶき。

突如宙にあらわれた、妖気に満ちた汚水の巨魁。
それが私を押しつぶすべく落下してきたのだ。

「くっ」

危なかった。

魔族が使う、水の魔術。

もしフルールの声がなければ、したたかな水圧の一撃を受けて大ダメージを受けていただろう。

息をつく間もなく、宙を舞う水しぶきのカーテン、その奥から先程 私を突き飛ばした巨体が再び突進してくる光景に目を見張る。

残る敵は2体。
今、おこなわれたのは彼らによる連携攻撃。

牛を思わせる巨体の魔物の突進と。
カエルのような魔物の、水の魔術。

けれど。

「不意打ちじゃなければ、そんな突進ッ…!!!」

瞬時に意識を切り替えつつ、後ろに引いた脚に力を込める。
ジリリッと土を踏みつけながら。

そして、右手に精一杯の力を込めて。

突進してくる牛型の魔人、その顔面に向かって私は拳を突き出す!

「……な……っ」

信じられない、と言わんばかりに妖精の少年が叫ぶ。

無理もない。
妖精フルールから見れば、小柄な女の子とトラックのような破壊力を持った魔人との正面対決。

きっとそれは、思わず目をふさぎたくなるような光景だろうけれども。

けれど、そこはもっと私を信頼して欲しいというもの。

人々を魔物から守ることを使命とする妖精が、彼ならば。

その彼が選んだ聖戦士。それが、私。

その力は、普通の女の子のそれじゃない。

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「はぁっ!」

裂帛の気合と放たれる、聖戦士の一撃。

ドゴォオオオンッ!!

響き渡るのは、ダンプカーとトラックが正面衝突したような衝撃音。

目論み通りに、吹き飛んだのは牛型の魔人。そして、その牛型の魔人が飛ばされる先に居るのは先程の水塊を放っただろう蛙の魔人。

『……ゲロォアッ!?』

2体の魔人は、そのまま玉突き事故のように衝突し、土煙をあげながら何度も何度も地面に身体を打ちつけながら転がっていく。

そして、そのまま積み上げられた資材の砂袋の山に突っ込む形で、魔人達はまとめて意識を失い、動かなくなる。

「今よ、フルールッ! 封印をしてっ…!!」

驚愕のあまり呆然としている妖精の少年に向かって叱咤するように言い放つと、彼は慌てふためきながら封印の小瓶を構え直す。

「わ、分かってるよ…!」

口を尖らせながら、相棒の妖精が2体の魔人の封印を開始しようとしたとき。

私達の後ろから、ばさばさと耳障りな音が響いた。

思わずギョッとして振り返れば、先ほど地面に叩きつけた翼の魔物が、そのまま天に向かってはばたいて逃げていこうとしている。

しまった。

見た目よりも、タフでしぶといタイプの魔物だったんだ。

けれど、逃さない…!

私が先程と同じ要領で走り出し、鉄骨を駆け上がろうとした瞬間。

『クェキョァアアアアアッ!!』

宙でぐるりと振り返った魔物は大きく嘴を開き、鉄骨に向かって衝撃波を放った。

一瞬にして崩れる足場。
脚をもつれるようにして宙に放り出され、バランスを崩す私。

「うぁあああ!?」

落ちる。
いや、受け身を取れば、なんとか大丈夫だろうけれど。

でもそうなれば、きっともう間に合わない。

逃がしてしまう。

歯噛みしつつ、そのまま飛び去ろうとする魔物の後ろ姿へと視線を移した時。

「空気を蹴って、ユキ!」

フルールが魔法によって空気を固めたのか、真四角の雲が目の前に浮かんでいる。
見た目はテレビゲームに出てきそうな格好の、宙に浮く白いブロック。

思わず吹き出しそうになりつつも、相棒のファインプレーに感謝の言葉を投げかける。

「ありがとっ、フルール!」

その雲のブロックを蹴って、魔物の背中へと肉迫する。

”勝った”と思った瞬間には身体が動いている。

エナジーのありったけを込めた蹴りを、魔物の後ろから叩きつける。

「セイント・ホーリースピアーーッ!!」

ドォオオンッ!!

『グキャァアアアアアアアッ!!!』

再び地へと叩きつけられる、烏の魔物。
大きな砂煙が周囲に舞い上がる。

さすがに、今度ばかりは決着の一撃だった。
嘴を大きく開いて泡を吹きながら、ピクピクと痙攣する魔物を前にして、フルールが肩をすくめる。『やりすぎだよ』 と言いたげな彼の視線が、少し痛い。

けれど。ここで、ようやく。

小瓶に封じ込まられていく鳥の魔物をはじめとした三体の異形の怪物を見送りつつ、私は安堵の一息をつく気持ちになった。

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戦いの決着。
けれど、それが 『万事解決』 ではないことはよくあること。

真夜中。
夜の工事現場で始まったのは、祝勝会ではなく相棒の妖精によるお説教タイムだった。

今回、私が半ば強引に4体の敵を一度に相手取った事に対して、妖精の少年フルールは「無茶をするにもほどがある」とおかんむりなのだった。

お説教の合間に、抗弁を試みてはみたけれど、今回はどうにも旗色が悪い。

「……うん。わかってる。4体の敵を、いっぺんにやっつけようなんてムチャは、もうしないってば」

「だけど、あの魔物達を放っておけば、多くの小さな子ども達がひどい目に遭ったんでしょ? 精気を吸われたり、悪い夢を見せられたりしたんでしょ?」

「……なら、やっぱり多少の危険は覚悟のうえで……」

「え? ダメ? 相談なしに突っ込むなんてありえない?」

「……うん。それは、その……。ホント、ゴメン」

何度も頭を下げて、相棒の妖精の機嫌をとりつつも。

それでも、心の中では。

( でも、まぁ。勝てて良かった )

などと胸を張りつつ、達成感の心地よい疲労に浸ってみる。

ここ数日、発生し続けた街の子ども達の昏倒事件。
子ども達を専門に狙い、悪夢を植えつけてきた魔物達のグループの仕業。

けれど原因となる魔物達を封印したことで、子ども達には笑顔が戻るはずだ。

今回も、無事、大きな仕事を終える事が出来た。
そんな感覚に、どこか大人っぽさを感じてむず痒くなる。

熱く火照った身体を、心地よく冷やす夜風を、もっと感じたくて。
軽く目をつぶりつつ、背伸びをしてみる。

妖精の少年の小言に聞き耳を立てつつ、あらためてこの非現実な関係に不思議な気持ちになる。

人々を悪い魔物から守ることを使命とする、妖精の少年。
そんな彼に、聖なる戦士として見出された私。

うん。

やっぱり、不思議。

どうして。

どうして、私が選ばれたのかな。


真夜中。

時計の針はとうに12時を回っている。

妖精の少年と出会う前は、ベッドの中で眠っている時間に。
今、こんな時間を過ごしている事に、どこか不思議を感じながら。

夢見るように。私は、胸の中で呟いた。

『……うん。決めた』

いつか、聞いてみなくては。

なぜ、彼が私を選んだのかを。


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私とフルールはいつも、相棒として街を守ってきた。

妖精フルール。

小さな少年の姿をした、少し生意気な男の子。

大きさは、私の手の平の上で立つことができるくらい。

背中には、とても綺麗な羽が生えている。

その羽をくすぐると、フルールは顔を真っ赤にして怒る。
たぶん、すごくくすぐったいのだ。

それは、私だけが知っている秘密。

そんな小さなものから、もっともっと大きなものまで、私たちは、たくさんの秘密を二人で分け合っていた。

私が、フルールからセイント戦士としての力をもらったことが、その中でも一番の秘密。

ケンカもたくさんしたけれど、私たちの心は、強い絆で結ばれている。

そう。強い絆で結ばれているんだ。
なぜなら、私とフルールは共に戦う戦友だから。


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人知れず、この街は魔物達に襲われている。

例えば。子ども達をさらい、悪夢を植え付ける魔人。
例えば。夜の闇に女の人達を引きずり込んで、呑みこもうとする魔獣。

おそろしい、本当におそろしい魔物達。


そんな彼らの魔の手から、私にみんなを守る力をくれたのが妖精の男の子フルールだった。


フルールが私に与えてくれたのは、セイントに変身する能力。
闇の底から現れる魔物達を打ち払う、聖なる戦士として戦う力。

私とフルールが出会ってから、まだ半年くらいだけど、その間に幾度もの魔物達との戦いがあって、2人で力を合わせて乗り越えてきた。


『 どうして、私を選んだの? 』

そう訊いてみたことがあるけれど、フルールは照れたように話をごまかしてばかり。

いつか絶対に聞き出してやろうと、私はこっそり心に決めている。


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今。季節は夏。
夕暮れから夜にかけての、セミ達が静かになり始める時間。

私がいつものように塾から帰ると、もうすっかり暗い時間になっていた。

夏の間は、おばあちゃんの家に買い物を届けて帰ることになっているから、どうしても遅くなってしまう。そんな私を気づかって、フルールはその間にも、代わりに町をパトロールしてくれている。

『パトロールは、のんびり屋のユキがいない方がはかどるくらいさ』

ときどき、そんな生意気な憎まれ口をたたいたりもするけれど、優しくて頼りになるフルールが、私は好きだ。


「ただいま。フルール、いないよね」

今夜も、部屋にフルールの姿はない。

フルールのことは心から信頼しているたけれど、彼が魔物の足跡を追って部屋にいない時は胸がキュッっとなる。相棒として、友達として。すごく心配になるから。

 
今日は特に、なんだかイヤな予感がする。
夕食までの短い時間だけど、私も街のパトロールに出てフルールと合流することにした。


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私の右手の手の平には、フルールが私にくれた聖なる戦士としての証の、魔法を宿した紋様がある。

聖戦士セイント・ユキへと変身するときは、その紋様が宿った自身の手を胸にかざすようにして、約束の言葉を口にするのだ。

「セイント・オン!」

部屋が白い光に溢れる。
魔法の力でブラウスやスカートが弾けて、替わりに聖なるコスチュームが私を包んだ。

変身が完了するまでに必要とする時間は、わずかに2秒ほど。

いつもながら魔法の力って凄いな、と思いながら、部屋の鏡に映った変身後の自分の姿を見て、小さく満足する。


髪の色は青色へと変わり、青の宝玉が埋め込まれたサークレットがあらわれて頭を守る。
そして同じく青を基調とした、スカートとブーツ、ロングの手袋が身を固める。

小さい頃の私は、ご多分に漏れず 『 愛と正義の魔法少女 』に憧れていたのだけど。

「ふふ」

今、その夢がかなっちゃったわけだ。


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フルールから聞いた話によると。

妖精から人々を守る聖戦士としてのセイントの力を与えられた人間は、私を含めて昔から何人もいるらしい。

その始まりは、はるか過去の時代へとさかのぼる。

もう何千年も昔、神々と魔物との間に大きな戦いがあって、その戦いに負けた魔物達は地中深くの異空間、『魔界』へと閉じこめられたのだそうだ。

通常、魔界と私達が住む地上との間は次元の壁によって隔絶しているのだけど、ときどき綻びが生じて、そこから魔物が出入りすることがあって。

それらの魔物達から人々を守るために、妖精が正しい魂を持つ人間を選び、聖戦士すなわちセイントとしての役目を与える……、という話なんだけど……。


……うんん。


なんだか凄く壮大な話。

漫画やアニメではよくある設定だけど、それが自分の身の上に起こってしまうと、これは全然『よくある話』じゃなかったりする。

ホントに、なんで私が選ばれたんだろう?

フルールと出会う前までの自分は、どこにでもいる平凡な女の子だっただけに、実のところ聖戦士としての自分にはいまだにとまどっている。

……それでも。

こうやってひとり部屋で鏡の前に立つと、鏡の中の変身した自分の姿に、やっぱりドキドキしちゃったりもするわけで。

「聖戦士 セイント・ユキ! この力は、大切な人達を守るために!」

鏡の前でポーズを決めつつ、決めセリフっぽい事を言ってみる。

もっとも。

こんな風に、自分の部屋でひとり変身した姿に見入っちゃったり、カッコつけたりする姿はフルールには見せられないから、これは私だけの秘密。

 
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「…って、いけない。早くフルールと合流しなくちゃいけないんだっけ……」

と我に返り、鏡の中の私に別れを告げようとした、その時。

 
フルールのフェアリーパウダーが、部屋の窓から突然飛び込んできたのだった。

普段から、私達はパウダーを使っては連絡を取り合っている。キラキラと輝いて、セイント戦士と妖精にしか読めない文字を宙に描いていくパウダー。

『ユキ!』

私の部屋一面に、フルールからのメッセージが浮かび上がった。

『非常事態だ。君の学校で、大変なことが起きてしまった』

その内容に、ドクンと胸が震える。

『今すぐ学校へ来てくれ!』

それを見た私は、すぐにスカートをひるがえして、窓から夜の街へ飛び出していた。

学校の事ももちろん大事だけど、何よりもフルールがとても心配だったから。

ざわめく胸をぎゅっと抑えながら、私は大切な相棒のことを想った。

 
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コンクリート、瓦、色とりどりの屋根を走り抜け、飛び越えて、私は駆ける。フルールが待つ、夜の学校を目指して。

セイント戦士へと姿を変えた私の青い髪がなびいて、スカートは風に舞う。


フルール、何があったの? 
お願い、無事でいて。


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目的地の校舎に到着したとき。
既にそこは、闇のエナジーで満たされていた。


「……な、何これ……」

ざわり、と鳥肌が立つ。

闇のエナジー。
それは、一言で言えば 『破壊』 の意志を悪意で黒く染めあげたエネルギーだ。
視覚的には、黒い炎のように見えることもあるし、濃霧のように見えることもある。

物質化するほどに濃縮された、憎悪と怨嗟。
万物を死や消滅に導く、破壊の呪詛。

創造を司る神々の光のエナジーや、愛を司る妖精のエナジーとは対極に存在する力。それが、闇のエナジーと呼ばれる力。

この世界は破壊と創造を繰り返すことで成り立っているのだから、破壊の力、それそのものは悪ではない。けれど、破壊の力を悪意で染め上げてしまえば、それは命ある者達に破滅をもたらす邪悪の力と化してしまう。

そんな闇のエナジーで満たされてしまった、夜の校舎。
既にそこは、この世界の一画に生まれた限定的な魔界と言ってもいいかもしれない。

妖精フルールと契約し、聖戦士としてこれまで幾度も信じられないような怪異を目の当たりにしてきたけれど、今回のこれは規格外のシロモノだ。

暗黒の城と化してしまった学舎を前に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。

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本来なら、決して足を踏み入れていい領域じゃない。
もしいつものようにフルールが私の傍らにいたら、彼は身体を張ってでも私がそこへ侵入することを阻むだろう。

勇気と無謀は違うと、顔を真っ赤にして怒るだろう。

けれど。そのフルールは、今、その魔の領域の中にいる。


「……待っていて、フルール。すぐに、行くから」


意を決して私は校門の柵を跳び越え、闇に飲み込まれた校舎へと飛び込んでいく。

真っ暗で、先生も生徒もいない、夜の学校。
ただでさえ不気味で無機質な場所が、闇のエナジーによって満たされたことで、暗黒の魔宮に造り変えられてしまっている。

呼び出されたのは、三年二組の教室。そこは、私がいつも通っている、友達や先生との思い出に満ちた大切な場所。

カッ カッ カッ カッ カッ カッ カッ カッ カッ !

無人の世界と化した校舎に響く、疾駆の残響。
圧倒的な不安と恐怖の感情を蹴り飛ばすように、踏み込む足に、蹴り出す足に、意志の力を込める。

廊下を走り抜け、そのまま一気に階段を駆け上がる。
小さく感じるフルールの気配を、一心に見上げながら。

フルールのエナジーは、一つの場所から動かない。
それにしても、この学校全体に充満した強力な闇の力は、いったい……。

異様な、良くない予感が胸に広がっていく。

いつもならフルールの方でも私の気配を感知して、何らかの呼びかけがあるのに。それがないということは、まさか……?


次々と浮かび上がってくる悪い想像を振り払うべく、私はいっそうの力で蹴り駆ける。

目的の三年二組の教室は、もう目の前。

ドアをスライドさせると、夏休みで使われていない机や椅子の、乾いた匂いがむっと漂ってくる。
 
同時に、全身の肌で感じる激しい闇の力。
この教室は、特に濃い暗黒のエナジーで満たされている事を理解する。

目に映るのは教室の一番前、黒板の中央でぼんやりと光る何か。

そこに、妖精の男の子フルールが、手足を磔にされていた。


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「…………ッ!?」

黒板の一部が、おそらくは魔法の力で肉の壁のようになっていて、そこから生えた触手みたいな何かで四肢が絡みとられるようにして、フルールが拘束されているのだ。

身体は傷だらけ。
頭と手足から血を垂らし、服はあちこちが赤く染まり破れてしまっている。
目を閉じたまま、ぐったりとした様子で力無く頭を垂れていて……

思わず叫ぶような声で、私は大切な相棒に呼びかけた。

「……フ、……フルーーールッ!?」





いったい彼の身に何が起きたのか。

私は唇を噛んだ。
すぐにでも彼に駆け寄って無事かどうかを確認したいのに、私が立つ教室の入口から黒板までの間は、いくつもの机と椅子に阻まれている。

焦るあまり、教室の後ろの入口から入っちゃうなんて。

ほんのわずかな判断ミス、それが無性に腹立たしい。


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「……ユキ…か…!? ……き、来ちゃダメだ……っ!」


磔にされながらも、私に向かってフルールが呻く。

良かった。ひどい傷を負ってはいるけれど、それでも生きている。
生きていて、くれた。

とても無事といえる様子じゃないけれど、それでも最悪の予想が現実となる事は回避されたのだ。


「フルールッ」


彼の生存に安堵しつつも、捕らわれた姿を前にして嫌な予感が確信に変わる。

やっぱり、先ほどのメッセージは、敵の罠だったのだ。
闇のエナジーで作ったフィールドへ、私を、セイント戦士をおびき寄せるための罠。

光の聖戦士である私にとって、この教室全体に充満した闇のエナジーの中で戦うのはあらゆる面で不利。

この状況を作るべく、敵はパトロール中だったフルールを捕まえて誘拐し、策略を仕組んだのだ。

なんて卑怯。
なんて狡猾。

許せない気持ちで、いっぱいになった。


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「……ユキ、逃げるんだ……! 先のフェアリーパウダーのメッセージは、敵の罠だ! 逃げてくれ!!」

そう叫ぶフルールに、私はつとめて明るく、そして優しく笑いかける。

「大丈夫だよ、フルール」

心配なんてしなくていい。

「こんなひどいことをした犯人なんてすぐにやっつけちゃうから。いっしょに帰ろう」

「ダメだユキ、逃げるんだ! 僕の事はもういいから! ……早く逃げるんだ!!」

全身ケガだらけの姿で拘束されているにもかかわらず、『助けて』ではなく『逃げて』と叫び続けるフルール。その姿は、悲痛そのもの。

私は胸が締め付けられる思いになる。

フルール、いったい何をそんなに脅えているの?

「何言っているの? あなたをこのままにしておけるわけないでしょ?」

「駄目だ! 逃げてくれ! お願いだ、お願いだから……っ!」

私の知っているフルールは、恐ろしい魔物達との戦いにも臆することのない知恵と勇気を宿した妖精の少年だ。小さな勇者と言ってもいいくらい。

そんな彼を、ここまで脅えさせる敵とは、いったい……。


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その時。

びりびりと空気が震え。ガタガタと教室の机を揺らしつつ。

ゲラゲラと。
教室いっぱいに、大きな、低い笑い声が響きわたった。

周囲を睨んで、警戒する。


「誰? 姿を現しなさい!」


私はしっかりと構えて、光のエナジーを手足に行き渡らせた。

武器に頼らない、純粋にエナジーと身体だけで戦うのが、私の、セイント・ユキの戦いのスタイル。

空手や柔道の経験はないけれど、セイント戦士に初めて変身したときから、戦うときはどうすればいいのか、どう体を動かせばいいのかを、不思議と理解できた。

フルールに言わせると、変身中は歴代のセイント戦士達の経験の一部が肉体と精神に宿る、ということらしい。


「退くんだ、ユキ! この敵は、今まで君が戦ってきたようなヤツじゃない!」

「……大丈夫……! 大丈夫だから!!」


フルールの魔法のサポートがない状態で戦うことは滅多にないけれど、それでもそういう戦いの経験がないわけじゃない。

問題があるとすれば、戦いの決着のつけ方。

今までは、私が戦って弱らせた敵をフルールの魔法 『魔封じの小瓶』 で封印することで決着させてきたのだけど、今のようにフルールが敵に拘束されている状態ではそれが叶わないのだ。

けれど。

そんな問題。知るもんか。

この敵は、フルールを誘拐して痛めつけた卑怯なヤツ。ぜったい、許さない。

動けなくなるまで、殴って、蹴って、投げ飛ばしてやるんだから。


「出てきなさい! 卑怯者!!」


再び見えざる敵に呼びかける私。

時間にして十数秒。じっと、纏わりつくような沈黙があった。
夏の夜は蒸し暑くて、コスチュームの中に汗が沁みていく。

高まる緊張。
教室の中いっぱいに、充満していく敵のエナジー。


……来る。

訪れる戦慄。

バリバリとほとばしる黒い閃光の中から現れたのは、全身に黒い鎧を纏った魔人だった。


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危険で、邪悪なオーラが撒き散らされて、教室の窓が音を立てて揺れていく。

闇の中に、なおも濃く浮かび上がった暗黒の敵。


身長は二メートルをゆうに超える巨体。
全身が、蟹か何かの生き物を思わせるような不気味な形状の、漆黒の鎧に覆われている。

その顔は仮面に覆われて、表情を窺い知ることはかなわない。
けれど、鎧兜の目の部分で、黄色く歪んだ瞳だけがギロリと光っている。

すごく不気味な視線。


圧倒的な存在感を放つ威容の敵が、教室の中央、私とフルールの間の空間に浮かびつつ、立ちふさがる。

距離にして四メートルほど。

重量感にあふれる異様の巨体が音もなく中空に浮かび、私を見下ろしている。思わず後ずさりしたくなるほどのプレッシャー。

だけど、今の私に 『退く』 という選択肢はない。

フルールが。
大切な、私のパートナーが。

目の前に捕らわれているのに。

さがることなんかできっこない。


暗黒の魔人を、キッとにらみつける私。

その私の視線を正面から受け止めながら、お腹の中まで響いてくるような低くて太い声で、魔人は言った。


「ようこそ、我が闇のフィールドへ。光の聖戦士、セイント・ユキ」

「魔人!  今すぐフルールを放しなさい!」


「くふっ……くははははは」


重低音の笑い声に、身体の芯が震える。


「噂通り、気の強い女だなセイント・ユキ。ところで、どうだ、このロケーションは? お気に召したかな?」


魔人は大げさに、その手を広げて私を見た。

「どういう、意味?」

嫌な予感がして、私は問い返す。


「……はて」

はぐらかすように。
魔人は、肩をすくめつつ黄色に光る目で教室全体をゆっくりと見回して。

「この場所は、貴様自身がよく知る場所のはずだが? セイント・ユキ」

再び、その視線で私を射抜く。


「……何が言いたいの……?」

口ではそう返しつつも、私は魔人の言葉を理解しつつあった。

そう、確かに魔人は先ほど 『このロケーション』 と言ったのだ。

……このロケーション。

そうだ。
この場所は。

……この教室は。

三年二組。

私が、普段 通っている教室。

ぞっと、背筋に冷たいものが走る。

まさか。うんん、そんなはずない。
私が、胸の奥から湧き上がる疑念を必死に打ち払おうとしたとき。


フルールが呻くように言った。

「……ごめん、ユキ……」

「えっ?」

「すまない……。この魔人は……僕のフェアリーエナジーを分析して、ユキの……セイント・ユキのことを暴いたんだ……」

フルールは震えながら、何度もごめんと呟いて。
会わせる顔がない、と言わんばかりに、うつむいて。
ぽろぽろと、涙をこぼして。

泣いていた。

そんな、まさか。


「くくくくく 。その妖精の言うとおりだよ、聖戦士。今夜、俺様は突き止めたのだ。真実を。セイント・ユキとは、誰なのかをな」

頭が、真っ白になった。

そんなはずない。そんな。フルールのフェアリーエナジーを解析するなんて。それが簡単なことではないのだと、私はずっと前にフルールから教えてもらっていた。

エナジーについて教わった時のことだ。

愛のエナジーと、闇のエナジー。そして、妖精が司る光のエナジー。それぞれに、その持ち主の記憶や感情が宿っているけれど、それを他人が読むのはとても難しい。

そんなことを出来る魔人がいるなんて。

仮にそんな事ができるとしても、そのためにはたくさんのエナジーをフルールから奪い取らなくてはいけないはず。……きっと、この魔人はフルールから無理やりエナジーを放出させたのだ。

フルールが全身に負っている傷。
それはきっと、魔人による拷問の跡。

なんて残酷で、なんて卑劣な作戦……。

許せない。


「すまない、ユキ……。本当にすまない。ぼくが、もっと……」

「あなたが謝ることなんかないっ!」

叫ぶようにフルールの言葉を遮る私へ向けて、魔人の指がすっと上がった。

昂まる闇の力。
その指から、突然、エナジーの針が撃ち出されて、私は慌てて跳び退いた。

稲妻のような、黒い残像が走る。

けれど、それは、私を狙った攻撃ではなかった。

じっと指を向けたまま、笑い声を響かせる魔人。
第二弾のエナジーの攻撃を放つ気配もなく、ただその指先は教室の後ろを指している。

「………………?」

警戒しながら、私はその指の示す方向を振り向き、その先にあるものを見た。

ドクンと、心臓が鳴った。

エナジーの針が、後ろの掲示板に突き刺さっている。
その針が貫いているのは、コピー用紙に印刷して張り出されていた、一枚の名簿だった。

それはこのクラスの、委員会の割り振りを書いた名簿。

その中の、一つの名前を針が貫いている。

針で焼かれた、一行の文字。


『図書委員・女子、柊雪』


私の、名前だった。

 
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一瞬。目の前が真っ暗になる。

足下がぐらりと揺れた気がして、思わず膝に力を入れつつも、二歩三歩と後ずさる。
はーっ…はーっ…と、過呼吸をともないながら口の中が急速に乾いていく。

今、目の前の魔人に私の正体を知られたということは、すなわち。

私の知る全ての人達を、人質にされたようなもの。

両親を。
友達を。

今まで関わった全ての人たちを暗黒の魔人の手中に収められてしまったということ。

もはや、魔人を打ち倒し、フルールを奪還できればそれでいい、というわけにはいかなくなってしまった。今、この状況で魔人に危害を与えようとすれば、それはすなわち……。

「グハハハハハ。いいぞ、その絶望の表情。実に、そそる」

愉快そのものといった様子で笑いながら。

しかし、魔人は両手を広げておどけるような仕草をしつつ言った。

「……クク。その顔、もう少し眺めていたいところではあるがな。……だが、セイントよ。ひとまずは安心するがいい。」

「…………?」

「おまえの家族や知人どもを押さえたのは、あくまで保険だ。人質として使うのは、この妖精一匹で充分だからな」

「………なっ」

魔人の意図を計りかねて、咄嗟に言葉が出ない。
いったい、この魔人の狙いは何なのか。

そんな私の懸念を見透かしたように、魔人が要求を言い放つ。

「この場から逃げるなよ、ということだ。今、おまえが逃げれば、家族や知人が死ぬ」


その言葉に、私は歯噛みする。もとより逃げるつもりなどない。けれど、家族や学校のみんなを危険に晒すようなことはできない。

もし、この状況で 『大人しく軍門にくだれ』 などと言われたら。

私はいったいどうすればいいのか。

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そんな私の覚悟を嘲笑うように、魔人が言葉を続ける。

「小娘。この妖精の小僧を取り戻すべく、全力で向かってくるがいい」

「え?」

予想外の魔人の言葉に、不覚にも間の抜けた声を漏らしてしまった。
てっきり 『抵抗するな』 とか 『命を差し出せ』 とか言ってくると思っていたから。

そんな私の反応を楽しむように。

「……んん? 『無抵抗のまま殺されろ』 とでも言うと思ったか? 馬鹿め、そんなつまらん殺し方をしてどうする」

暗黒の鎧に身を包んだ巨躯の魔人は、悪意に満ちた口調でその名と目的を告げたのだった。

「我が名はゼード。目的は、セイント・ユキと妖精フルールの抹殺。そして、貴様らに封印された同胞の魔物達の開放。このふたつを成すべく、魔王様は俺を人間界へと派遣されたのだ」

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魔人の言葉を遮るように、フルールが叫ぶ。

「ユキ、耳を貸すな! こいつは 『妖精狩り』 の異名で知られる凄く危険なヤツなんだ! 今まで僕達が戦ってきた魔物とは格が違う!!」

そして懇願するように訴えてくる。

「後生だから、君だけでも逃げてくれ! 過去何百年の間に、数多くの妖精達を殺してきた最悪の敵。それがこの、『妖精狩り』の魔人ゼードなんだ……っ」

そのフルールの言葉の後に、続くように。
落ち着き払った態度で、魔人ゼードが説明を加える。

「……まぁ、そういうことだ。本来なら俺ほどのレベルの魔人が人間界に出張ることなど、そうないのだがな」

肩をすくめながら、軽い口調で言ってのける。

「しかし、いかに小物ばかりとは言え、人間界に物見遊山に出かけた魔物どもがたて続けに封印されていると聞けば放っておくわけにもいかん。同胞を解放すべく、こうして足を運ぶことになったわけだ」


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腕を組みながら、余裕の態度を崩さない魔人。
その指先につまんだ小さな小瓶に気づき、私は呻く。

「……魔人。その、小瓶は」

「ああ、これか。先にその妖精から取り上げた『封印の小瓶』よ。さすがは、妖精どもの親玉、精霊王の手で作られた特等の魔道具だけのことはある。そう簡単には開封できんシロモノだ」

魔人ゼードが手にする、小さなガラスの小瓶。
瓶いっぱいに、真っ黒なインクを詰めたような見た目の、魔法の道具。

それこそが 『 封印の小瓶 』。
瓶に収められた黒のインクのようなそれは、すなわち人に仇をなす数多の闇の眷属を凝縮したもの。あの小さな小瓶には、凶悪な魔物が何十匹も閉じこめられているのだ。

けれど、本来は妖精フルールの所有物。

なんてこと。
悪逆の魔人の手に、それが渡ってしまうなんて。


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夜の教室に、魔人ゼードの声が響く。

「開けられぬなら、割るしかない。この小瓶は、我ら魔族の力をもってしても割ることはできぬほどに頑丈に出来ているのだが。実のところ、その強度は所有する妖精の心の強さに左右されていてな。妖精の心を完全にへし折ってやれば、小瓶もまた砕け散るというわけだ」

その説明が意味するところ。それは、すなわち。

封印の小瓶は、妖精フルールの心そのものだということ。

きっと、この魔人はフルールの心を壊すためにこの罠を仕組んだのだ。

私の推測を肯定するかのように、魔人が得意げに笑う。

「妖精の心を砕くには、相棒の聖戦士が打ち負かされ痛めつけられる姿を見せてやるのが一番手っ取り早い」

歯噛みする私達を前に、魔人は含み笑いで鎧を鳴らしながら講釈する。

「聖戦士をこの場で叩きのめし。その命と引き替えに、妖精に魔物を封印する使命を放棄するように仕向ければ。……おのずと小瓶も、効力を失うことになるだろうて」

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魔人を目の前にして、理解する。

その圧倒的な悪意と実力を。

終始崩さない余裕の態度は、自己の力量に裏打ちされてのもの。
その力をもって、当然のように私を倒し、踏みにじる気でいる。

けれど戦うしか、なかった。
いや、そもそも始めからフルールを置き去りにして 『逃げる』 という選択肢は私の中にはない。いかに強力な相手だろうと打ち倒し、フルールを取り戻す。

それしか、ない。

「フルール。少しだけ、待ってて。この魔物、もう黙らせちゃうから」

これ以上のおしゃべりは無用。

「……はぁああああっ」

四肢に聖なるエナジーを集約させて、私は臨戦態勢をとる。

対する魔人ゼードの足下からは、ブスブスと黒い炎を巻き起こしながら、暗黒の魔剣がせり上がるように出現しつつあった。

床から出現した魔剣を引き抜き、落ち着き払った様子で構えるゼード。

「ふふ。 我こそは魔界より来たる悪逆の強者。戦略と武技をもって敵を打ち倒し、蹂躙する事に無上の愉悦を感じる者なり」

芝居がかった口調で言ってのける魔人。

「出し惜しみをするなよ、聖戦士。死力を尽くした、その先にある敗北。貴様がそれに泣き、悶える姿こそが見物なのだからな」

あくまで余裕の態度が憎々しい。

けれど、その余裕が油断に繋がるならば。

そこに、つけ入る隙がある。

期するは速攻。狙うは強打。

人質を使う余裕すら与えないほどの、必殺の一撃。
あっけないほどの決着こそが望ましい。

「……せぁああああああああッ!!」

教室の床を踏み砕く勢いで後ろ足で蹴りつけて、私は一気に魔人との距離を詰めたのだった。


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あれから30分が経ったことを、教室の時計は告げていた。

夜とはいえ、季節は夏。
暑い。熱帯夜、と言っていいくらい。
 
汗の匂いが、教室に満ちはじめている。
ぼたぼたと、私の体から流れ落ちる汗。

けれど、それは暑さだけによるものではない。

……ガキィン……ッ……、…ガキィイン……ッ

重低音で響き渡る、鉄を打ち鳴らすような衝撃音が。
聖衣によって守られる私の両腕に響き渡る。

魔人が振るう魔剣の打ち込みを、辛うじてセイントの防具、聖衣の部分でガードするも、そのたびに確実に体力と気力が削られていく。

「あぐ! うぐ……っ! あぅううううっ!!」

セイントのコスチュームに打ち込まれ、ぶつかるたびにバリバリと黒い火花を散らす暗黒の剣。聖なる光を飲み込もうとする、闇のエナジーを宿した黒鉄の刃。

その打ち込みを、幾度もはじき返す光り輝く聖なる衣。

責める魔人の魔剣と、耐える私の聖衣のせめぎあい。

魔剣の斬撃をも跳ね返すセイントの防具、聖衣。
その頼もしさは言葉にできないほどのものだ。

けれど、聖衣が守る私の体は確実に消耗しつつある。

闇のフィールドの中で悠々と振舞いつつも、感嘆してみせる魔人。


「さすがは、聖戦士。さすがは聖衣。まさに鉄壁の守りだな。わが魔剣を、幾度となく弾き返すとは」

よどみのない口調で、言葉を続ける。

「神々の加護を受けし、光の聖戦士 セイント・ユキ。やはり、闇の眷属が振るう力では、そう簡単に討ち果たせるものではないらしい」

けれど。その言葉とは裏腹に、口調は余裕そのもの。

それはそうだ。

その魔人の前で、私はガクガクと揺れる膝で必死に身体を支え、かろうじて立っている有様なのだから。


戦いが始まって30分。その殆どの時間が、防戦一方だった。

無理もない。

闇のエナジーで満たされた、夜の教室。
愛のエナジーで戦う、光の聖戦士にとっては最悪のアウェイ。

墨が溶けたような汚水の中で戦っているような錯覚を覚えるほど。

本来の力の半分も出すことができない状況。

さらに精神的にも圧迫されている。
相棒の妖精フルールは拘束され、家族や友人を人質に取られている状況では、どうしても思い切った戦いができない。

渾身の力を込めた一撃を叩き込みたいところではあるけれど、それを防がれてしまった後の事を考えると、どうしても攻撃に迷いが生じてしまうのだ。


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「くく。どうした、セイント。俺は、貴様の事を褒めているのだぞ? 正直、これほどまで粘るとは思っていなかった」

軽口を叩く魔人を前に、私は唇を噛む。
……せめて。フルールを人質に取られていなければ。

普段の戦いであれば、フルールの魔法の援護があるのに。

遠距離からの炎の矢。
目くらましの閃光。
ダメージの回復。
攻撃力や防御力の強化。

いくらだって劣勢を覆す展開が期待できるのに。

そんな私の心を読み取ったかのように、魔人が笑う。

「くくく 、どうだ。相棒があのザマではやりづらかろう?」

余裕の口調で、悠々と剣を振るう。
自身に有利な状況を作った上での戦いは、この魔人に昂揚と愉悦をともなうものなのだろう。

リラックスした構えからの、流れるように無駄のない斬撃。

予備動作がほとんどないがゆえに、かわす事が容易ではない。

―― そして、ついに。

ブン、と低く風を切る音と共に放たれた下段の薙ぎ払いが私を捕らえた。

ガッ!

「……あうっ」

どうにか回避したつもりだったけれど、反応がわずかに遅れ、ブーツの踵を弾かれるような形になってしまう。

空中でバランスを崩した私は、床に転倒する。

どぉっ、と肘と頭から打ちつけられて。
夏休みの間にすっかり埃がたまってしまった教室の床に這う形になり、汗まみれの頬に張り付いた汚れに思わず不快の声を洩らす。

「くぅっ」

急いで起きあがろうとするけれど、そんな決定的な隙を逃す魔人ではない。

突如、電流のように下半身から駆け抜ける激痛。

踏まれたのだ。うつぶせに這う状態で足首の裏、踵の付け根の急所を。

「……あっ……がぁあっ……はっ……」

痛みで転げようとするけれど、巨体の魔人に足首を踏まれていては、それすらもままならない。

足首の骨と腱が軋む苦痛。
喘ぐ私を踏みにじりながら、魔人が勝ち誇る。

「勝負あり、だ。聖戦士」

その言葉とともに、魔剣の先端で首筋を撫でられて。
私は完全に、動きを封じられてしまった。

「ああっ、ユキ、ユキィーーーッ」

フルールの悲鳴が、耳に痛い。

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「セイント・ユキ。妖精と契約したお前達 聖戦士は確かに手強い」

地に伏した私に対し、魔人が評価を示す。

「我ら魔族をも討ち果たす超人的なパワーとスピード。そして、脅威的な防御力とタフネス。この俺を前に、ここまで戦える者などそうはおらん」

口では相手の力量を認めつつも。

それはそれ、これはこれ、とばかりに、魔人は床の上で動けない私の背中に渾身の振り下ろしを叩き込む。

夜の教室に、一際大きく響き渡る衝撃音。

ガシィィイイイイイイィイン……ッ

「……うぐぅ……あぁああううううううっ」

背中に走るダメージに、私は大きくのけぞり、苦悶し痙攣させられた。
ガクガクと身体が強張り、震える。

「あぐぁ……ああっ、ああああああ……」

背中を守る聖衣が魔剣を弾き返しても、その下は生身の肉体だ。
耐え難い痛苦によって、頭が真っ白になりかける。

そんな私の頭上から響く、魔人の笑い声。

「なによりも、この身体を守るこの聖衣が厄介だ。我が魔剣の斬撃をも弾く、神々の加護。並の魔族では、髪の毛ほどの傷もつけることがかなうまい」

そう言いながら、私の足首を踏みつけていた魔人の足の力がゆるみ、私から離れる。

わずかだけど、一縷の望み。
おそらくは、勝利を手中に収めたつもりの魔人の油断によるものだろう。

床に転がりながらも、なんとか反撃のチャンスを掴もうと図る私。
けれど、その脇腹に、魔人のつま先がめり込む。

ゲシィ……ッ!

足蹴にされたのだ、と理解するよりも早く、お腹に打ち込まれた重く響く痛みで意識を塗りつぶされる。

「あ、あうっ……ぁあっ、……あがっ」

無意識のうちに腕で顔と脇腹を守ろうとするけれど、あいにく人間の腕は二本しかない。ほとんど無防備な状態だったみぞおちのあたりに、ふたたび魔人の足蹴りが打ち込まれる。

ドボォッ!!

聖衣の下で、ギシリと軋む私の体。

「……げぁ……っ!?」

一瞬、何が起きたかわからないまま、呼吸が止まり。

ドスゥッ!!

再び、胃の辺りに打ち込まれた魔人の蹴りで、どういう状況にあるかをようやく理解する。

魔人に油断などなかった。

魔人の目的は、私をフルールの目の前で痛めつけること。
剣よりも蹴りの方が、嬲るには都合がいいのだろう。

胃の付近を痛打され、こみ上げてくる酸っぱいものに必死に耐えながら、私は両手で必死にお腹を押さえる事しかできない。

「……はぐぅ……、ふぐぅううううううぅっ!」

頭上から聞こえてくる魔人の声。

「くくく、なかなか良い声で悶えるではないかセイント。つまりは、こういうわけだ。聖衣に守られていても、その下にあるのは人間の身体。動けなくなる程度に、負荷を与えてやるのはたやすい」

耐え難い屈辱と苦痛に対して、私ができることはただ声を殺して呻くことだけ。

「……うぅ……ぐ……う…うっぅううっ…」

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「ユキ! ああ、ユキ!」
「やめろ! 魔人! やるなら僕をやれ!」

涙に枯れたフルールの声。
いやだ。このままじゃ、本当に魔人の思う壺。

悲鳴なんて上げるものかと唇を噛んでいるけれど、それを嘲笑うかのように、魔人は攻撃の手を強めてきた。

ガッ、ガッ、ゴッ、ガッ、ドガッ!!  

小刻みに、足蹴にすることそのものを目的にした連打。
たとえ聖衣の守りは破れずとも、打たれる側にとっては休みなく刻み込まれる痛苦の嵐。

「あうっぐ……っ、あぅ……あぅっ……」

まずい。視界がぼやけてきた。蓄積したダメージは深刻だ。

必死に閉じていたはずの口が開き、そこからたらたらと不覚にも唾液が垂れる。
全身はガクガクと震え、さらに激しい痙攣を見せてしまう。


このままじゃ、駄目だ。
動けなくなってしまう前に、なんとか反撃のチャンスを掴まないと。


時々ふっと、意識が遠のく。
イヤだ。ダメだ。

負けるもんか。こんな、卑劣な敵に。

「どうだ、セイント。命乞いでもしてみるか?」

視界のピントが合うと、薄ら笑いを思わせる魔人眼が、じっと私を見下ろしていた。

「それとも一度、逃げてみるかね?」

そう皮肉たっぷりに言ってのける魔人の言葉が悔しくて、私はギュッと拳を握った。

私が決して逃げられない、とわかっていてそんなことを言う魔人が、憎い。
用意周到に、逃げられない状況を作り出しておきながら。

「卑怯者……」

精一杯の軽蔑を込めた私の言葉に対し、魔人は嗤う。

「はっはっは。卑怯? 卑怯だと? 馬鹿を言うな、これは戦略というものだ」

魔人が、嘲るように体を揺らす。


「愛の戦士セイント・ユキ! ひとつ、教えてやろう!」

どっ。

再び、腹部に激しく打ち込まれる足蹴り。

「あう! あぐっ!」

「暴力だ! この世界は暴力が支配するのだ!!」

魔人の声が、笑いで上ずる。
足蹴りの間も口を休めることなく、侮蔑の言葉で私達を嬲る。

「しかし、セイント・ユキよ。貴様もまた、力の行使者! 暴力の化身!!」

迷いのない言葉で、魔人が告げる。

「我ら魔族から見れば、同胞を撃ち払い続けた憎き敵! 許しがたい暴力の行使者なのだ!」

高らかに、言い放つ。

「己の力に酔っていた者が、より強い力を持つ者によって打ち倒される! それだけのことだ! 納得して死んで行くがいいっ!!」

 
そんな魔人の言葉の合間に、響くフルールの声。

「やめろ、魔人! これ以上ユキを嬲るのはやめろぉーーっ!」

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本当は。

魔人の言葉に耳を貸す必要なんか、ないはずだったのに。
相棒のフルールの悲痛な叫びこそを、自身の力に変えて奮い立つべきだったのに。

けれど。

私もまた、『暴力の化身』。

聞き流せばいいだけの魔人の言葉が、不覚にも胸に刺さって抜けようとしない。

(……ち、ちがう……。暴力、なんかじゃない……。私はただ、みんなを……悪いやつらから、守りたかった……だけ……)

その思いを言葉にできぬまま、私は幾度も魔人の足蹴りによって床を転がされた。

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「……あ……ぅ……ああ……」

身体中を散々に打ち据えられて、私が床の上で動くこともままならなくなったところで。

「くく」

ようやく魔人は、一息つくように私から距離を取った。

教室に響くのは、私のうめき声と、教室の黒板に磔にされて動けないまますすり泣くことしかできないフルールの声だけ。

「やめてくれ……。頼む、もうこれ以上は……やめてくれ……」

ここで、ようやく魔人はフルールに向き直った。

「くふふ。馬鹿な、何を言うか。本当の見せ場は、これからだぞ?」

床の上で思うように動けなくなった私の頭を、野球のグローブのように大きな手で掴んで持ち上げながら、巨体を揺すって笑う。

「……あっ……ぐぅ……ぁ……っ」

ギリギリと万力で頭を締め付けられるような苦痛。
頭を支点に、身体が宙で吊られる恐怖。

頭を掴まれて持ち上げられるなんて。
セイントに変身していないときにこんな乱暴をされたら、首の骨が折れてしまうに違いない。

しかし、私のそんな懸念も、すぐに新たな衝撃によって上書きされる。

ドォッ!

「……はぐっ」

片手で私の頭を掴んで持ち上げながら、無防備な私のお腹に容赦のない鉄拳を打ち込んできたのだ。

ドス……っ……ドグッ……ドボォッ!

「げふぅ……おお……っ、……おぶ…ぅうううっ」

たまらなかった。
先ほど、散々に足蹴にされたお腹が、今度は握り拳で。

たまらず、口から胃の中の物が、吐瀉物が、吹きこぼれる。
苦痛による涙と鼻水で、顔がぐちゃぐちゃになっていることすら、わからなくなるほどの苦しみ。

『……うああああ……ユキ、ユキィイー……ーッ! 』
『……やめろぉ、魔人、……もぉやめてくれぇッ!……』

まずい。意識が混濁しつつあるらしい。
フルールの叫ぶ声が、遠い。

フルールのせいなんかじゃないって、言ってあげたいのに。
なのに、声が出ない。

肉体のダメージだけじゃない。

さきほどの魔人の言葉が、今なお私の胸に突き刺さっている。

『 魔物から見れば、憎むべき力の行使者 』
『 許し難き暴力の化身 』

事実は、そうなのかもしれない……。

今、私がこんな目にあっているのは。
他ならぬ、私自身が招いたことなのではないか。

私が聖戦士セイント・ユキとして戦うことになったきっかけは、フルールに選ばれたからだけれど。

フルールと共に、戦うことを選んだのは、私自身。

街の人々を守るためとはいえ、
多くの魔物を打ち倒し、封印の小瓶に閉じこめてきた私は。

事実、暴力の行使者ではなかったか。


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『もうやめろ! そのコに戦いを強いたのは、僕だ……! これ以上いたぶるのはやめてくれ…っ…』

朦朧とした意識の外から、泣き叫ぶフルールの声が響く。

ああ、フルール。

確かに、私は。
戦うことを、好んでいたわけではなかったけれど。

戦うことなく、彼らに人を襲うことをやめさせることができないか。
そんなことを考え込んだことも、幾度かはあったけれど。

でも。でも、でも。

そのために、私は何をしただろう。

……結局、何もしなかった。

魔物達との意志の疎通を図るよりも、
魔物達の犠牲になる人を減らすことを優先し続けてきた。

フルール、私は。
あなたに戦いを強いられたから、戦っていたんじゃない。


きっと、私は、戦いたかった。

あなたとともに、戦える事が、嬉しかった。

聖なる戦士、セイントである自分に、昂揚していた。
人々を守る盾であり、人々を襲う者達を打ち払う剣である自分に、喜びを感じていた。

でも、それは。魔物達から見れば。





暴力の、化身。

実のところは、そうだったのかもしれない。

 
「……私は……。…いったい……」

心が乱れて。

私の身を守る聖衣に宿るエナジーが、刹那、薄まってしまった、その時を。

魔人は、決して見逃さなかった。

「見せたな。迷いを」

戦う事そのものに疑念を抱く事。
それは、聖なる戦士としてあるまじき不覚。

その隙間に差し込むように。

ザクリと、音がして。

視界が、霞む。

「……あ……」

おなかが、すごく、熱い。

見下ろすと、心臓の鼓動が早まる。

私のおなかに黒いエナジーが刺しこまれていた。
剣の形の闇のエナジーが、魔人の掌から突き出されている。


魔族の攻撃をことごとく弾くはずの聖衣を、貫通する闇のエナジーの刃。

しまった。
今までの攻撃のすべては、この技のための布石だったんだ。


「あう、あ、かはっ……」

「そんな、ユキ! うああああああああっ? やめろ魔人! やめろやめろっ! ユキ、ああユキーーーーー!」

フルールの声を確かに聞きながらも、のけぞる私。

「あぐぅあああああああぁあぁああっっ!!」

それは、人々の守り手たるセイントをも殺しうる恐るべき魔導の技。
暗黒の魔術師だけが使える闇のエナジーの錬成。

『絶望』の念を黒の刃に変えて、直接相手に打ち込む暗黒の技術。

その名も、ダークスティング。


けれど、それを。
この魔人も使うことができたなんて。


「はっはっは。良い姿だな、セイント。いかに聖衣が強固であろうと、肉体を痛めつけ、心に隙を作ればこのザマよ」

勝ち誇る魔人の声が聞こえる。

「なまくら刀で打ち据えたのも、足蹴にしたのも、あくまで仕込みよ。本命は、これこの通り、我が闇のエナジーによる無形の剣。……ふふ、どうかね? 暗黒の力を直接 内臓で味合う気分は?」

耳元にささやかれる嘲笑の言葉。


「あ、あ、フルール」

手を伸ばすと、フルールに触れられそうだった。でも、それは錯覚。

磔にされたままのフルールと。
暗黒のエナジーで貫かれ、魔人の手に落ちた私。

私たちの距離は、遠くて。


「ユキ! ユキーー!」

磔にされたまま暴れるようにバタついて、泣き叫ぶフルール。


ああ、フルール。

心配しないで、と伝えたくて、無理矢理に私は笑う。
精一杯の力で。ニッコリと、笑う。

泣かないでフルール。ね。お願い。
大丈夫。私、大丈夫だから。

ね、わたし。だいじょうぶ、だから。

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「……ね、フルール。……だい……すき、だから……」

……、あ、れ。

ちがった。

……いま、私、だいじょうぶ、って言いたかったんだけど、な。

でも、だいすき、でも……それはそれで……

……間違いでは……ない……んだっけ……?


フルールに手を伸ばしたまま、パクパクと口を動かすしかできない私。

そんな私達を嗤うように、魔人がフルールに語りかける。

 
「どうだ、妖精? 見るがいい。おまえが契約した娘の腹から突き出た我が黒の刃を。我ら魔族に楯突いた愚か者は、こうなるのだ!! ……そして……」

「やめろぉ、もうやめろぉおおーー!」

……ずっ……ずずっ……。

フルールの前で私は、おなかの剣を、さらに押し込まれてしまった。

「わが暗黒の刃はより深く! 愚か者に絶望を与えるのだ!!」

「……あ……、かはっ……!」

ぼやける視界。うすれゆく意識。

やがて、憎むべき敵の声も、
守るべき人の声も、遠くなって……。


「はっはっはっ! 己の無力を知るがいい! 聖なる者たち!」

嗤う魔人の声。

「ユキーーーーー!」

遠くで響く、フルールの叫び。

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夜が深まって、学校は闇に包まれていた。

けれど、魔物によって作り出されたエナジーのフィールドは、教室の中をぼんやりと紫の灯りで浮かび上がらせている。

暗い絶望をおなかに刺し込まれてから、私は長い時間、気絶していた。

夢を、見た気がする。

心をじっとりと締め付けるような、悪夢。

灼け爛れた街を歩きながら、幼い私が泣き叫んでいた。

たくさんの人が地面に倒れていて、みんな、服を剥ぎ取られて苦しんで、転げ回って。

友達も、両親も、フルールも、みんな、裸にされて。幼い私だけが、ぶかぶかのセイントのコスチュームを着て泣いている。

セイントの力は持っているのに、幼くて、何もできなくて。

みんなを助けようと泣きながら走り出すと、大きすぎるコスチュームが、肩から地面へ脱げ落ちていった…………。

 
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「ユキ! 気がついた? ユキ!」

「う、ん……、フルー、ル?」

目を開けても、頭がぼんやりとして重たい。

私の身体は、立った姿勢で床から浮き上がっていた。

身体が動かない。

ピンと上に伸ばした両腕と肩が、張りつめたように痛む。

私は、両手をまっすぐに上げさせられていた。

汗でコスチュームが肌に張りついて、息苦しい。

上を向くと、自分の腕と、手首が天井へ伸びているのが分かった。

私は、両手を手枷によって拘束され、鎖で吊るし上げられていたのだ。

もがいても、両手の拘束を解くことができない。焦りが胸に広がっていく。どんなに頑張っても、ゆさゆさと、スカートの揺れる音がするだけ。それどころか、手首の魔具が、余計にきつく締め付けてくるようだ。

視線を下ろすと、黒板には今もフルールが磔にされていた。心配そうなフルールの顔。私は、どうにか微笑もうとしたけれど、痛みに呻いてしまった。


「ユキ、しっかり。大丈夫?」

「……う、ん……。だ、だいじょうぶ……だよ……」


「お目覚めかな?」

ぞくりと響く声。

背の高い魔人と、吊るされた私の目線が、今は同じ高さにあった。魔人はすぐ隣に立って、私を見つめている。

「つくづく、セイントとは厄介だ。実にしぶとい。剣が通じぬのならばと、闇のエナジーで直接 肉体と精神を貫いてやったのだが。殺すまでには至らなかった」

どこまでも、勝手なことを言う魔人。

私はありったけの敵意と侮蔑をこめて吐き捨てる。

「……卑怯者……」

「くはははは。ずいぶんと生意気な事を言ってくれるではないか。失神しているうちに自分の立場を忘れてしまったようだな」

魔人はそう言って黒板へ手を向けると、突然、フルールへ向けて真っ黒な電撃を放った。


「うああああああああっ!」

黒の電撃に絡み取られ、黒板の上で絶叫し痙攣するフルール。


「フ、フルール!? ダメ、やめて、やめてぇえええ!」

私が身体を揺らして叫ぶと、魔人は意地悪く目を笑みに歪ませながら稲妻を止めた。


「自分の立場を思い出してくれたか? セイント・ユキ」

そう言うと魔人は長い指を差し出して、じっとりと私のおなかを縦になぞった。

ゾッと、私は驚きと不快感に顔を歪める。

指が触れたのは、私のおなかの素肌だったのだ。


コスチュームのおなかの部分が、失われてしまっていた。

そんな。セイントのコスチュームは、簡単には破壊できない聖なる衣。

それが焼き消されてしまうなんて……。ダークスティングの持つ闇のエナジーの凄まじさに、じわりと汗が溢れていく。


「寝ている間に、随分とうわ言を言っていたぞ」

魔人は私のおへそを指でいじりながら、言葉を続けてきた。

くちゅりと。

おへそにたまった汗が、音を立てる。

執拗におなかを、破れた聖衣をなぞる魔人の指の気持ち悪さ。

「あ、う……うぅっ……、やめて……」

「『お父さん、お母さん、みんな、フルール』と。何度も呟いておったわ。そんな大切な者達を、危険に晒したくなければ、態度に気をつけることだ」

くやしさに唇を噛む。
けれど、みんなを人質に取られて、私はもう、なすすべがなかった。

だけど、諦めるわけにはいかない。

反撃のチャンスは、きっと、きっとある。あるはずだ。

「……くっ……」

私は魔人を睨みながら、なんとか打開する方法を見つけようと考え続けていた。

この拘束を解き、フルールを助け、今日ここでこの魔人を倒す方法を見つけなくちゃ。正体を知られてしまった以上、絶対にここで、決着をつけなければ。

決着。

そう考えた時、気絶する前に魔人に言われた言葉が頭をよぎった。

『 貴様もまた、暴力の化身なのだ 』

ズキリ、と魔人に刺されたお腹が痛む。

暗黒の剣とともに私に打ち込まれた、魔人の言葉。


あれは、確かに私を殺しうる言葉の刃だった。

事実、今、私から聖戦士セイントとして戦い続ける勇気が、失われつつある。

私は。

みんなを守るために、正体を隠して戦ってきた。
でもそれって、とても卑怯で、自分勝手なことなのではないか。

 
現に今、みんなに知られないところで、みんなを危険に晒している。
私もまた、魔物達同様……みんなにとっての災いなのではないか。


実際、私は多くの魔物達を倒してきた。封印してきた。
フルールの魔法の道具『封魔の小瓶』に、閉じこめてきた。

なるべく殺さずに封印するようにしてきたけど、力加減ができなくて殺してしまった敵だってたくさんいる。

そんな私は、魔物から見れば殺しても飽き足らないほどに憎い敵なのだろう。
彼らにとっては、私もまた暴力の行使者であるに、違いない。


……ならば。

暴力で物事を解決しようとしてきた私もまた、
魔物と、同じなのではないか。

忌むべき存在なのではないか。


不意に、心がくじけそうになった。


戦うことが、とても、怖くて。

戦う自分が、恐ろしいものに思える。

こんな気持ちを、どうして、もっと早く抱かなかったんだろう。

もっと、きちんと、考えて努力するべきだったのだ。

もっと、相手と解り合う方法を、きちんと探して……。


「ユキ!」

フルールの声にはっと顔を上げると。

私の目の前には、漆黒の魔人。
その巨大な手に、今度は剣ではなく杭のような形状のダークスティングを構えて。

闇のエナジーによって形を与えられた、暗黒の凶器が私のお腹に突き立てられた。

ずぐぅっ!!

ふたたび体を黒のエナジーに串刺しにされて。


「ふぐぅううううううううっ!」

たまらず、苦悶する。
串刺しにされた場所から、地獄のような痛みと、暗い絶望が灼けるように広がる。


「どうだ。苦しかろう。闇のエナジーに刺されるのは、実際に肉体をえぐられる以上の苦痛をもたらすのだからな」

ぐいぐいとエナジーの杭をねじ込みながら、魔人は興奮で声をうわずらせる。


「さぁ、セイントよ。そこの妖精に懇願するがいい」

私の顎を掴み、無理矢理フルールの方へと向けながら、魔人が促す。
私のフルールの間の、教壇の机の上に。コトリ、と魔人の手によって封印の小瓶が置かれる。

「言え。この苦しみから、私を解放して欲しい、と。この魔法の小瓶から、閉じこめた魔物達を開放してくれ、と。おまえの口から、あの妖精に願うのだ。……さすれば、あの小僧も、さすがに年貢の納め時だと観念しようて」

耳元でささやかれる魔人の言葉に精一杯、私は抗う。

「……だ、誰が……っ」

魔人の顔に唾を吐きかけたい衝動を押さえながら、フルールに向かって叫ぶ。

「フルール! 大丈夫だから。私は、大丈夫だから……っ!」

そんな私の反応も、魔人にとっては予想の範囲内だったのだろう。

「ほほう。さすがはセイント。普通の人間ならば、一撃で精神を破壊することが出来るほどの痛みなのだがな。だが……これならばどうだ?」

さほど、逆上することもなく。けれど、残酷に。

エナジーの杭の先端を、私に向けて。

身体が吊り下げられることで無防備に開かれてしまっている、右腕の付け根……、わきへと打ち込んでいく。

「……ぁっ……ぐぅあああああああああっ!!」

人体の急所のひとつをうがたれ、たまらず涙と唾液を吹きこぼしながら叫ぶ私。
悶え揺れる私を押さえつけながら、魔人が語りかけてくる。

「痛いか? 痛いだろう? だが安心しろ、痛いだけだ。いまいましいセイントの加護とやらで、いまだ肉体を損壊させるほどのダメージは与えられていないようだ」

悶え暴れる私を押さえつけながら、医者が患者を諭すように魔人は冷静に状況を説明してみせる。

「……あ……、あぐぅ……あううっ……」

魔人の言葉を確かめるべく、黒のエナジーに刺された箇所に目をやる私。
確かに、血は一滴も出ていない。

体はこれほどまでに……涙と汗が止まらないほどに、痛いのに。


そんな私の反応を楽しむように。

「刺しても死なぬ、というのはいかにもつまらぬが。しかし、……考えようによっては、これはこれで悪くない」

嗜虐的な含み笑いをしつつ、ダークスティングを引き抜きながら、魔人は恐ろしい事を口にした。

「何度も、何度も、刺し殺されるほどの痛みを与えることができる、と思えば。なかなかに得難い機会でないないか」

どっ どっ どっ どっ

幾度も、幾度も。
笑いながら、魔人が闇のエナジーの杭を身体中に突き立ててくる。


「……ああっ、あっ、あっ! あーーーっ! あーーーっ! 」

もう、まともに意識を保つことすらできなかった。

思考が混濁して。
現実から意識が弾き飛ばされて。

再び、さっきまで見ていた悪夢の続きが眼前に広がる。


灼け落ちた街。

たくさんの人が地面に倒れていて、
みんな、服を剥ぎ取られて苦しんで、転げ回って。
裸の体に、大きな太い杭を刺されて。

その横で魔族達が笑い転げている。


そんな、悪夢に。
あの悪夢の中に、このままでは私も堕とされてしまう。

 
負けたくない。でも。

今まで戦ったたくさんの魔物の顔が、目に浮かぶ。

どの顔も、「よくも、よくも」と恨みを吐いて。

笑っている。
私の後悔と苦しみを見て、笑っている。



ああ、私、なんていう罪を犯したのだろう。

暴力の、報い。


今、この魔人が私に振るっている暴力は、結局、私が過去に振るってきた暴力が、わが身に返ってきた結果なんだ。


頭を振り、吊るされた身体を震わせると、涙がこぼれ落ちていた。

私は、みんなを。守りたかった。
でも、もしも。

…私じゃなかったら?

……フルールが選んだのが、私じゃなかったら?

……こんな結果には、ならなかったんじゃないかな……。

 
フルールが捕らわれることもなく。
大切な人達が危険に晒されることもなく。

魔物達を、暴力ではない手段で、引かせることもできたんじゃないかな……。


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「ユキ! しっかり! 魔人の言葉に耳を傾けては駄目だッ!」

再び、フルールの声が響いて。

私は、もう一度顔を上げた。

はっと、今、現実の光景が目に飛び込んでくる。

フルール。
相変わらず、磔にされたままの私の大切な相棒。

涙と声を涸らして、それでも私を励まそうとする、妖精の男の子。

そうだ。

せめて、フルールを助けなきゃ。


今、ひとたび。
私は暴力を行使する覚悟を決める。
目の前の魔人を、倒す。倒しきる。

 
大切な人を守るために。

それがたとえ自分勝手な私の、罪だとしても。

いつか必ず、償わなければいけないとしても。

こんなところで。
この魔人には。

 
負けるわけにはいかないんだ。

必ず。フルールを、自由に。


負けないで、と叫び続けるフルールに、私は決意を込めた目で応えた。

ありがとう。勇気をくれて。


「ユ…キ…?」

フルールが、不安げに、そして私の心を察するように見つめ返してくる。


大丈夫だよ、フルール。

私の力は、まだ尽きていないから。

フルール。ねぇ、フルール。

以前、教えてくれたよね。

愛こそが、セイントのエナジーなのだと。

ならば、今、その全てを全開にして解き放てば。

この魔人を倒し、フルールを助けることができるんじゃないかな?
お父さんやお母さん、学校の友達、大切な人達を守ることができるかもしれないよね?

ううん。きっと、できる。

だって、今、私は。

これまでにないほど、みんなのことを想っているから。

大切だと、守りたいと。
愛している、と。

そう、強く強く思っているから。


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再び、今度は左わき腹に向けて、魔人の暗黒のエナジーの杭が打ちこまれた。


「あうぐっ!」

暗黒のエナジー、それは絶望のかたち。
けれど、肉体に刷り込まれていく絶望の中で、私は希望のエナジーを練り上げていく。

それは、勝利のための確かな計算。

実は、この状況においてなお。
抵抗のそぶりを見せずに使える技が、一つだけあるのだ。

吊るし上げられたこの姿でも、放つことが出来る技が。

目の前に広がりそうになる悪夢の幻影を、必死に意志の力で振り払いながら想った。
あんなひどい光景の中で、私の大切な人達が苦しむことがあってはならない。


みんなが、大好き。

愛してる。

守りたい。

魔人を、しっかりと睨みながら。
私は、最後の力を振るうことを決意する。


「ほう……。まだ、気を失わんか。強情な娘だ」

魔人の言葉は、すでに私の心に届かなかった。


今、私の心にいるのは。

フルール。

お父さん。
お母さん。

学校のみんな。

『 ……大好きだよ 』

あったかいエナジーが、胸に満ちて。
それがそのまま、おなかの真ん中に強く流れ溢れていく。


魔人がいまいましげに呟く。

「気に入らんな。満ち足りた顔をしおって。あの妖精をかばうことで、いっぱしの聖者でも気取っているのか?」

私の前で、再び、黒のエナジーを杭から剣の形に変えて構える暗黒の魔人。

「ならば、今一度、特大のダークスティングで貴様の無様な姿を引き出してやろう。次は、気絶で済まんかもしれんぞ?」


来る。

私はおなかに収束させたエナジーを、そっと目を閉じて一気に高めた。

耳に響くのは。

「ユキ! 何をするつもり!?」

叫ぶ、フルールの声と。


「喰らえセイント」

嗤う、魔人の声。

そして、ズシャリと響く音。
再び。前から闇のエナジーをおなかへと突き立てられてしまった。

「あっ、ぐぅ!」

ダメージに上を向いて反り返りつつも、私はこのチャンスを逃すまいと意識をおなかに集中させて、聖なる力の解放をイメージする。


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そう。

これもまた、勝利に至るひとつの方法。

魔人の余裕が油断に繋がるならば。
そこに、つけ入る隙がある。

人質を使わせる余裕すら与えないほどの、必殺の一撃。


「な、なんだ。これは」

魔人の呻き声をかき消すように、キィィンとエナジーが集束する音が響く。

魔人の握る剣が突然、眩い光に変わり始めた。

「ま、まさか」

フルールが声を上げる。

「ダメだ! ユキ! その技を使ったら、ユキの大切なエナジーが!」

動揺しているのはフルールだけではない。

「な、何だ、これは、一体!」

魔人もまた、ただならぬ事態に驚愕して叫ぶ。

「何をした! 貴様、いったい何をしたのだぁ!?」


慌てふためく魔人の問いに答えず、私はフルールに向けて笑いかける。

「大丈夫。私のことは気にしないでフルール。ぜったい助けるって、言ったでしょ?」

「ユキ、ダメだぁああーーー!」

フルールの制止の声を振り切って、私はセイントとしての最後の技の名を叫ぶ。


「セイント・ファイナルエナジー!」


魔人の剣は今、私のおなかに突き刺さったまま、光のエナジーに塗り替えられていった。

手を離そうと魔人は慌てるけれど、その手は、剣を握った形のまま動かない。

「おおおおおおおおおおお!?」

叫ぶ魔人のその腕が、光の粒子になっていく。

「馬鹿なぁ! こんなことがっ!!」

目の前で必死にあがく敵に、私は言い放つ。

「私は、自分のしてきたことが、罪だって気付かされた。あなたのおかげで。だけどあなたを許すことはできない! 私もあなたも、滅びるのよ!」

「おのれえええええ!」

響き渡る魔人の断末魔。

「ぐぅごおおおおお……ッ……、おのれ、おのれおのれおのれぇえええええッ!!」

魔人の叫びの向こうで

「ユキーーーーーー!」

小さな体で、信じられないほどの大きな声で叫ぶ妖精の男の子。

そんな彼らの姿が見えなくなるほどに強い光がはじけて、教室はまばゆく照らし出された。

影が払われ、フルールを拘束していた黒板の一部が、本来の姿を取り戻し始める。
暗黒の魔法で肉の壁と化していた場所が剥がれ落ち、フルールの拘束が解けていく。

教室の床や壁、天井のあちこちに巣くっていた魔人の使い魔達、妖虫の群れもキィキィと耳障りな鳴き声をあげつつも、塵のように霧散していく。

やがて訪れる音のない時間。

真っ白な、暖かい光。

愛のエナジーの、最大放出。

けれど、それを攻撃に使ってしまうのは禁忌。
もし使えば、自分自身もエナジーで激しいダメージを受けることになる。


「あうぅううう……ああああああああああああああああっ」


自身をも灼きつくすような白光のエナジーの放出の中で。
私の魂もまた、焦がされていき。

白く。白く。
真っ白に、燃え尽きていくようだった。


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光がそっと弱まって消えると、そこに、魔人の姿はもうなかった。

闇は、消えたのだ。

私は、焦げ付いた魔道具に手首を縛られたまま、ボロボロの姿で、両手を上げ、全身をダメージに焼かれていた。

今なお、身体は鎖で吊るされ宙に浮いたまま。

「ユキ! ユキ!」

ほっぺに、フルールの小さな手の平を感じる。

よかった。フルールは、自由に、なれたんだね。

微笑もうとするけれど、痛みに声を上げてしまう。

「あ、うっ」

「なんて無茶をするんだよ、ユキ」


泣きながら、フルールがおろおろと目の前を飛び回る。

「セイント・ファイナルエナジーで受けたダメージは、僕の力で回復してあげられない。ああどうしよう。ユキ、ユキ、お願いだ、しっかり」

いいの。フルール。気にしないで。

あの魔人から、フルールを守れて、よかった……。

ぐったりとした私に、必死で回復の魔法をかけてくれるフルール。
でも、痛みは消えない。


「ユキ! ああユキ! すぐ妖精界へ行って、精霊王さまに回復してもらおう」

天井へ向けて飛び上がり、私の両手を締め付ける魔道具を外そうとするフルール。


「くそぉ! セイント・ファイナルエナジーでもちぎれないなんて、なんて強い闇の魔道具だ」

その間にも、青い花びらのように、私のコスチュームは焼け焦げて散り始めていた。

コスチュームの消滅は、聖なるエナジーの消滅も意味する。

私がセイント・ユキに変身していられる時間は、セイント・ファイナルエナジーによって、もうほとんど残っていないのだと思う。

「でも、よかっ、た」

私は、安堵する。

「フルールを、助けて、あげられて」

「しっかり! ユキ! 精霊王さまの所へ行けばすぐ元どおりだよ。だって、まだユキの身体には聖なるエナジーが残ってるもの。ファイナルエナジーを使ったのにまだ変身が解けないなんて、ユキに宿る力は……やっぱりすごいよっ」

「あり、がと。フルールが、鍛えてくれたおかげだよ。……ふ……ふふ……」


身体から力が抜けつつあるのに、息は燃えるように熱い。
肺だけじゃなく、内臓が全て、灼けつくように痛む。

これが、セイント・ファイナルエナジーの、代償……。


「ユキ、しっかり、しっかりして」

そう声をかけ続けていてくれたフルールの声。

だけどそれが、突然、とだえた。



「あ、あ……」

フルールの、震えた息。

「……そんな……、ウソだ」

私の背後を見つめたまま、フルールは目を見開いていた。


「どう、したの? フルー、ル……?」


ザンッ。

鈍い音が教室に響いて、私の、身体が揺れる。

「……えっ?」

おなかを見下ろすと、コスチュームが焼け落ちて裸になった下腹部から、暗黒のエナジーが突き出していた。


「え、……あ、……あ、あれ……?」

嘘。そんな。


「……なんで…? …だって……、私……」

「ああーーー! ユキぃーーーーーーー!」

フルールが叫びながら私の背後へ飛び込んでいく。


「やめろ! ユキはもう! これ以上は!! ああっ、やめろーーー!」



バチンッ、と。
鈍い音と共に、教室の床にフルールがはたき落とされて叩きつけられる。


「フ、フルー、ル!!」

そして、私の体から、暗黒のエナジーが引き抜かれる。

「かはっ」


喉の奥から鉄の味。
……血が出てる……?

吐血……してる……。

私は、無防備な状態で肉体と精神を切り抉られたダメージに目を見張った。



「恐ろしい奴だ、セイント・ユキ」

背後から、のそりと、暗黒の魔人が歩み出た。

「そん…なっ」

驚愕。そして恐怖。

聖なるエナジーが尽きかけた私にとって、眼前の暗黒の魔人から受けるプレッシャーは、先ほどとは比べ物にならないものだった。

なんという……なんという負のオーラだろう。
いや、怖のオーラ、と言った方がいいかもしれない。

今、私は明らかに恐れ、脅え、怯んでいた。

「あ……あ………あうぅ……」

脅威を前になすすべもなく、ただ言葉にならない声を洩らすしかできない。


そんな私を冷ややかな目で見下ろしつつ、魔人は確かな口調で自分の身に何が起きたかを振り返っている。

「危うく消滅するところだったぞ。まさか我が領域で……。闇のフィールドの内で、あれほどの規模の聖なる力を解き放つとはな」

魔人は、鎧が砕け、所々からその黒い肉体が露出してグロテスクな姿になっていた。
仮面は割れ、その下から獣のような顔が剥き出しになっている。

だけど、確かに生きていた。

セイント・ファイナルエナジーでさえ、倒すことができなかったのだ。


そして、私の方へとゆっくりと振り向き。

はっきりとした口調で言い放つ。

「さぁ、代償を払ってもらおうか、セイント・ユキ」

ことさらに、ゆっくりと魔人の手に錬成されていく暗黒剣。
ブスブスと、燻るような音をあげて。黒い炎のようにゆらめきながら、呪詛と痛苦を具現させたような、闇の武器が形作られていく。

「そのエナジーの尽きかけた体で受けるダークスティングの味がいかなるものか……。存分に、知るがいい」

悪意と獣性。
鎧と仮面が剥がれ落ち、その下から露わになった魔人の正体。
威嚇するように歯を剥き出しにして、悪逆の笑みを形作る。

その手に握りしめられた、特大のダークスティング。
聖戦士をも殺しうる拷問武器。

その光景に、私はただ脅えることしかできない。

「……いや、いやぁっ……! ……ああっ…………あああ……」

もう悲鳴を押し殺すことすらできなくなっている。


見せつけるように、ゆっくりと。ゆっくりと。
闇のエナジーを錬成し、その手に処刑道具を形づくっていく。

「……や、やめ……て……」

思わず許しを乞うような言葉を口にしてしまう私。


そんな私の姿に、少しだけ気を良くしたのだろう。
魔人は血まみれの顔で、ニンマリと笑う。仮面の下の顔が露わになっただけに、魔人の正体、悪獣の本性が明らかになって、それがとてつもなく恐ろしい。


「……あ、ああ……」

私の絶望の悲嘆は。

……ずぶり、と。

右の胸へと突き立てられたエナジーの魔剣によって。

すぐに絶叫へと塗り替えられた。


「……あぎゃぅっ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

「ふははははは、いいぞぉ、セイントッ その声! その表情! それだ、それが聞きたかったのだ! 見たかったのだ!!」


手枷と鎖の魔道具によって天井から吊り下げられた私は、まさに生贄の子羊さながらだった。

痛み。ただ、純粋な痛み。破滅的な、苦しみ。絶望的な、痛苦。

なぜ死ねないのか。なぜ狂ってしまわないのか。
それが不思議でならないほどの、耐え難い痛み。

これが、ダークスティングの本来の威力。
それを今、私は受けてしまったのだ。

プシャァアアアアアア!

ついに肉体が限界を超え、失禁する。

「……アッ……アッ、アァーーーーーーーーッ!!!」

目から涙を、鼻からは鼻水を、全身からは汗が玉のように飛び散る中、新たにオシッコが吹き出したところで、それがいったい何だというのか。

羞恥心すら消し飛ぶ痛覚の奔流の中で、私はあられもなく泣き叫んだ。


_________________


今なお、セイントとして身に宿った加護は完全には失われてはいない。

しかし、いかにセイントの肉体が超人的な耐久力を誇るといっても、やはり限度はあるのだ。繰り出される魔人の攻撃から命を守るべく、肉体の保護と回復にエナジーが一気に消費されてしまう。

その結果、ますます聖衣を維持する力は失われてしまうことになるのだ。

……肩当てが、スカートが、ブーツが。次々と綻び、破れ、剥がれ落ちていく。


その有様をみて、魔人が笑う。

「ふははははは、これは愉快。先ほどは剣をもってしても傷つけることが容易でなかった聖衣が、今は面白いように散って、なくなっていくわ」


嬉しげに、ただ嗤う。

「いいぞ、いいぞ。さすがはセイントの肉体だ。耐えておる、耐えておるわ。魔族とも渡り合える聖戦士ゆえに。……この痛苦に耐え続けることができるというわけだ……!!」

魔人は興奮で声をうわずらせつつ感嘆する。

けれどもう、そんな魔人の言葉も耳に入ってこない。
今、魔人が何を言っているのかすら、理解できない。

私の意識は今、すべて痛覚に向けられている。

闇のエナジーによる攻撃とは、そういうもの。
破壊と殺傷、憎悪と呪詛の意志が宿った力とは、そういうものなのだ。

「あああああ……っ……、いっぎ……っ……、……ぃああああああああああっ」

全身を襲う激痛につぐ激痛。

悶え暴れる私の体から、聖衣の多くが剥がれ落ちて失われ もはや半裸の状態だ。
しかし、それすら気にかけることができないほどに、さらされた素肌を恥じることができないほどに、ダークスティングによる拷問処刑の痛苦は凄まじいものだった。

赤く灼けた鉄の杭を体に打ち込まれたところに、猛毒をねじ込まれていくような。

文字通りの、生き地獄。


「……ぐはぁ、かはっ……、ぁああ……ああ……」


ダメージで、視界が赤く霞んでいく。

「あ、かは、……あっ…っ……あ、……ああ………」


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「むぅ。さすがにこのまま続ければ、死ぬか」

不満げに魔人がつぶやき。ようやく剣が引き抜かれる。

それと同時にがっくりとうなだれる私。
ぽたぽたと、全身から吹きこぼれた体液が、足の指をつたって落ちていく。

両手を拘束されて吊り上げられ、灼けて失われつつあるコスチュームを纏った私に、成す術はもう、なかった。

 
かつて経験したことのない、絶対的な窮地。

そんな中、かろうじて、私はフルールの方へと目を向けた。

フルールは冷たい床の上で気を失っている。

先ほど私をかばおうとして、魔人に床にたたきつけられたダメージが相当に深刻らしい。背中の羽がピクリピクリと動いていることで、かろうじて生きていることがわかる有様だ。

 
魔人の報復によって完全にあらがう力を失ってしまった私と、床の上で身動きが取れなくなってしまったフルール。

ああ。

もう……。これは、本当に……駄目かもしれない。

絶望に支配されつつある、私の胸中を読み取ったのだろうか。暗黒の魔人が勝ち誇る。
 

「どうだ! 頼みとする相棒も、あのていたらくだ!!」

「う……あ………」

魔人は、私の苦悶と絶望が愉快でならないらしい。

「絶望の中で死んでいけ、セイント! なあに、あの世でもさびしい思いはさせん。貴様が死んだら、その後で貴様の愛する者たちも残らず葬ってやる! 家族も! 級友達もなぁっ!」

なすすべのない私を前に、魔人がかなりたてる。
その悪意はとどまるところを知らなかった。本来の姿、独善的で残酷な本性を露わにして吠えるように叫ぶ。

「当然だろう、貴様はこの俺を殺しかけたのだっ! もはや貴様を殺すくらいでは済まされんわ!」


_________________


絶望の中で理解する。

私はきっと、もう助からない。
このまま、魔人の手によって嬲り殺されるのだろう。

けれど。

私の、大切な人達まで。
死なせるわけにはいかない。

みんなを、巻き込んでしまうこと。
それだけは駄目だ。

「……やめ、て……。あの人達を殺すのは、やめて……」

言葉を選んでいる余裕もないまま、大切な人達の命乞いをする。

この手負いの獣と化した魔人が、簡単に私の言葉に耳を貸すとは思えないけれど。
諦めるわけにはいかない。

とにかく今は、ひたすら訴えかけるしかない。

魔人の関心が、私だけに向かうようにしないと。

「……みんなは、関係、ない……」

しかし意外にも。魔人は私の言葉に応じた。

「……ほう? 関係ないか?」

魔人は意地悪く笑い後ろへ下がりつつ、なにやら感心したようにつぶやく。

「なるほどな。確かに。……考えようによっては、我らの戦いに、貴様の家族や級友達は関係ないのかもしれん」

そのまま足音を響かせて、床に転がるフルールへと近づいていく。

そして無造作に、ひょいと。道に落ちている何かを拾うような気軽さで、床で倒れ伏しているフルールを指でつまみあげ、私に向けて掲げてみせた。


「ならば、この妖精はどうだ? 光と闇の戦いに、関係がないとは言わせんぞ」

「……そ、それは」

「ふん。ひとつ、妖精のために命乞いでもしてみるか? セイント」

「……あ……あ…。ああ………」


まずい。

今、フルールは意識を失ってしまっている。魔人がその気になれば、造作もなく捻り殺されてしまうだろう。

つまらない意地を張っている場合では、なかった。

「お、お願い……。私はどうなってもいい。フルールに、ひどいことをしないで……」

「まだ足りんな」

笑いながらも、不満げに鼻を鳴らす魔人。

「そもそも、どうなってもいい、とは笑わせる言いぐさだぞ、セイント。勝者たる俺様が、敗者たる貴様達をどうするかを決めるにあたって、いちいち許可をえなくてはいけないのか?」

嗜虐の笑みを浮かべつつも、はっきりとした口調で魔人は言い放った。

「貴様らをどう嬲って、殺すか。それを決めるのは俺だ。殺し合いの後に、敗者が殺され方を選ぶ権利など何処にもありはしない」

そして、くつくつと愉悦で喉を鳴らしながら、その手でつまみ上げたフルールに問いかける。

「なぁ、妖精の小僧よ。おまえは、その程度の理屈もこの小娘に教えてやらなかったのかよ?」

魔人に息を吹きかけられて、フルールがうっすらと意識を取り戻した。


「…ぅ………あ……」


フルールはぐったりとしながら、魔人を見上げて呻く。


「……魔人……。頼む……。もう……おまえの勝ちで……いい……から……」


泣くように、眼前の敵に訴える。


「……だけど……。ユ、ユキはもう、エナジーが消えかけてるんだ。……もう、やめろ……。僕はどうなってもいいから、ユキだけは……」


そのフルールの言葉に、魔人が含み笑いをする。


「くく。なかなか泣かせる事を言うではないか。『自分はどうなってもいい』か。ならば、……そうだな……」

魔人は片手に持ったフルールを目の高さでぶらつかせながら、私の方へと向き直って言った。


「セイント・ユキよ。妖精どもは様々な魔法を使うことができるが。そのうちのひとつに、人間の姿に変化するものがあるのは知っているか?」


思わぬ問いかけに、私は戸惑う。


妖精が、人間の姿になる?

そんな魔法があるなんて、初耳だ。
実際、今までフルールは一度たりとも私の前で人間の姿に変身したことなんてなかった。
 
返答に窮する私の反応に、魔人は意地悪く笑う。


「……んん? 知らんのか。妖精が人間の世界を探索する際、悪目立ちしないよう人間の姿を借りる事は、よくある話なのだがな?」


魔人の問いに沈黙で応える私。

そんな私の反応を楽しむように、魔人は言葉を続ける。


「しかし、これは理解していよう? 俺が、エナジーを解析した妖精の魔法を使役することができることを」

その問いかけに、私は思わず唇を噛んだ。

魔人が、捕らえた妖精の魔法を使うことができること。

それは充分に理解している。
実際、魔人はフルールのパウダー・メッセージの魔法を使って、この場に罠を張って、私をおびきよせたのだから。


そして、急に。ゾクリ、と。
 
得体の知れない恐怖に襲われた。
この魔人はいったいこれから何をしようというのか。


「……いったい……。いったい、何が言いたいの?」

その私の問いに、魔人は大笑いしながら答えた。


「なぁに、この俺様の力をもって。今、この妖精に、かりそめの人間の体を与えてやろうと。まぁ、そういういうわけだ」

笑いながら魔人の手から、黒い煙のような闇が吹き出して、それがフルールを包む。


「う、うあ……やめろ、やめろぉ、ぅあああああああー」


突如作り出された直径1メートルほどの球体の闇の中で、フルールが叫ぶ。

「だ、だめ! やめて、フルールにひどいことしないで!」

思わず悲鳴をあげる私。


しかし、それほどの間を置くこともなく、手品師が黒い布を払うように。
フルールを覆う闇は、風に吹かれた煙のようにと消えていき。

そして、消えゆく闇の中から現れたのは。

「………………っ!?」

人間の子どもほどの大きさの体となったフルールだった。

そう。人間の子ども。
小学生の高学年……四年生か五年生ほどの、裸の子ども。

魔人によって片腕を掴まれる形で宙に足を浮かせている。

魔法によって人間の姿に変えられたせいだろうか、妖精の姿のときのフルールの身体のあちこちにあった傷は消えている。けれど、傷ひとつない裸の少年が手負いの獣と化した魔人の手にあることが、たまらない不安と恐怖を感じさせる。

「……っひ……」

驚愕とともに漏れる私の声。


「……う……あ……」

無理矢理に魔法で人の大きさに変えられたフルールは、ぐったりとしている。


思わぬ魔人の行為に戸惑い、天井から吊り下げられた身をよじる私。

恐ろしかった。

あの残虐非道の魔人が、人間の男の子の姿になってしまったフルールの手首を片手で握り、軽々とぶら下げている目の前の光景が。


言葉も出ない私の顔の前に、魔人が無防備な裸の少年を突きつける。

「くくっく。……喜べ。これからお前達に、情けをくれてやろう」

心の底から楽しそうに。愉悦に満ちた様子で、魔人が告げる。


「……えっ?」

次の瞬間。

これまでずっと相棒としていっしょに戦ってきた私と妖精の少年は、魔人の手によって、口と口をつけ合わされていた。

___________________________________________


「…… んっ!?」


それは、なんの脈絡もない突然の、妖精と人間のキス。
フルールと、セイント・ユキの、口づけ。


「んん!」

「んんぁ!」


教室に響く、私とフルールのくもぐった呻き声。

首を振ろうとしても、押し付けてくる。
魔人の笑いが、高らかに響いた。


「はっはっは! 地獄に落とす前に、せめて良い思い出のひとつくらいは作ってやろうと思ってな!」


げたげた、と。下卑た声で魔人が笑う。

「私の計らいに感謝しろよ、妖精!この娘とのキスは、これが初めてであろう?」

まるで人形で遊ぶ子どものように無邪気に。そして残酷に。執拗に。
フルールの体を軽々と弄ぶ魔人。

「どうだ、妖精。このサイズなら釣り合うだろう? 楽しめよう?先ほどまでの虫けらみたいな小さな体では、このように口を合わせることなどできないのだからなぁ!」


なんという悪意だろう。
今、魔人は私達を痛めつけるだけでは飽きたらず、人形のように弄んでいるのだ。


「ん! ユキ、ごめん。……ん……ん!」

「フルール、いいの。フルールの、せいじゃない。ん……んー! 魔人、……許さない……、許さないんだからっ」

強い口調で抗ってはみたけれど、私たちは完全に魔人におもちゃにされていた。
そんな私達の悲痛な呻きを上塗りするように、魔人は哄笑した。

嘲りの愉悦に身を任せながら。

「はっはっはははは。屈辱とともに、魂に刻め。そして思い知れ! 我ら魔族に楯突いた愚かさを。はーはっはっはははははははは!!」


___________________________________________



私とフルールは、互いに必死に口を閉じて魔人の思い通りになるまい、と抵抗する。

触れあうのは、互いの口だけじゃない。

必然、汗ばんだ身体も。
互いに正面から、素肌が密着するのだ。

フルールのお腹と、私のお腹がくっついて、互いの体温と柔らかさ、湿った身体の感触に震える。ばたつくフルールの足の指が私の膝に触れて、思わずびくりとする。

「……やっ……、やぁ……っ……! やぁあああっ」

恥ずかしさに顔が真っ赤になる。

これまで、フルールのことは相棒だと思ってきた。
小さな体に大いなる勇気と使命感を秘めた、素敵な男の子。

こんな弟がいたら、と思うこともあった。

けれど。
今、こんなふうに妖精の身体ではなく人間の少年の姿にされてしまったフルールに、こんな形で触れ合うことになるなんて想像すらできなかった事。

それはフルールも同じなのだろう。

「……んん……んぅーっ……!」

彼も必死に目を閉じて、魔人の思うままになるまいと身体を強張らせてもがく。

けれどそんな私達の抵抗は、魔人の圧倒的な力の前ではあまりにも無力だった。

魔人は、飽くなき悪意で私達を玩弄し続ける。

「……おやおや。せっかくの俺様の好意が気に入らんのか? ならば、このままガキの首をねじ切ってやってもいいが?」

思わず息を呑む私とフルールに対し、ゼードがからかうように煽り立てる。


「 妖精よ。ここで、命など惜しくない、と意地を張ってみるか? それはそれでかまわんが、目の前でオマエの首と胴が離れる様をみれば、そのセイントの女はさぞや悲しむだろうなぁ」

「……うぅ……く……」

私の唇に押し付けられたフルールの小さな唇。
そこから力無く呻き声が漏れる。

それを見ながら、ゼードは黄色い瞳を歪ませて笑う。

「くだらん死に方をしたくなければ、舌のひとつも絡ませてみることだ」

身動きがとれないまま、私達は無理やりに唇を押し付けられて。

魔人の言うがままに唇を開き、舌を舐めあう。悔しいけれど、少しずつ漏れてしまう水音を止めることができない。

ちゅ、く。くちゅ、ちゅぷ。

「んん、……んんん!……」
「……んく……ぅ……うう……あむ」

ちゅぷぷ……んちゅっ……くちゅ……。

フルールの口の中の水分と、私の口の中の水分とが、唇の表層で混ざり合う。

混ざり合うのは唇だけじゃない。
汗も。涙も。

せつなくて。かなしくて。くやしくて。
私とフルールの目からは、涙がぽろぽろとこぼれて。

じっとりと汗ばんだ互いの頬の上でそれらが一緒になって流れ落ち、口の中に入ってきて。

「ふぅ……ぅぐ……ううううっ」

ふたり、その涙の味に泣いた。

そして、ようやく。
ゼードは満足したのか、私とフルールを引き離し。

恥辱と緊張から解放されて放心した様子のフルールを闇の魔法で空中にきつく磔にした。

「……ぅああ……あっ」

抵抗らしい抵抗もできず、不可視の十字架に固定されて宙に浮くフルール。

夜の教室に、魔人の虜囚となった私達の悲痛な呻きが沈む。

「はぁ、はぁ……あぁ……、……ああ……フルール……」

私は悔しさと、キスのショックで声を潤ませた。


「どうだ、聖なる者達よ。愛する者の口は甘かったか?」

ゼードは戯れるような口調で語りかけながらも、私の頬を片手で掴むように持ち、ぐいと正面のフルールへ向かせると言った。


「さぁ妖精フルールよ。俺の心遣いに対する礼がまだであろう? ここはひとつ、お前たちの絆とやらについて、詳しく聞かせてもらおうか」

「……な、なにを」

ゼードを睨むフルール。

しかしそれを意に介せず、ゼードはフルールに問いかける。


「お前の口から、聞きたいのだ。この娘をセイントに選んだ理由は?」


ゼードによるフルールへの問いかけに、ドクンと、私の鼓動が、大きく波打つ。

それは、いつか私がフルールに訊きたかったこと。

しかし答えようとしないフルールに対し、ニタニタと笑いながらゼードは再び問いかける。


「では質問を変えてやろうか? 例えばそうだな……」

パチン、と空いた手で指を鳴らして。
その指先に、黒い火花のような闇の力をほとばしらせて見せる。

「セイントといえど、さすがにここまで消耗した状態では……。暗黒のエナジーを放たれれば、そろそろ無事では済まないのではないかな?」

そのゼードの言葉を耳にした途端、私の身体はガクガクと震える。

あの地獄のような痛苦の奔流を、今、再び受けてしまったら。

……無理だ。

もう、今度こそ、本当に死んでしまうかもしれない。

「や、……っ、やめろぉおおおっ!」

叫ぶフルール。

「ならば先ほどの質問に答えろ、妖精。答えなければ、撃ち放つ」

「…………っ」

焦れたようなゼードの言葉に、フルールはがくりとうなだれる。

その小さな口が、声と呼吸をうまくできずに震えている。


_________________


私もまた、緊張で震えていた。

今、彼が私を選んだ理由を、初めて話そうとしている。

ああ。でも。

こんな風に、聞きたくないよ。


「……うう。彼女を、選んだ理由は……」

フルールはうつむきながら、やがて観念したかのように、震える声で話し始めた。

「ユキが、とても優しくて、ステキな女の子だったからだ。ユキと出会う前。僕は、セイントにふさわしい女の子を探すために、この街の学校の人たちを観察していた……」

「それで、この娘を見つけたというわけだな?」

「そう…、だ…。友達思いで、みんなに、とても優しくしているのを何度も空から見てた。優しいだけじゃない。本を読んでいる時の横顔はおとなしそうだけど……なんだか、見た目のイメージとはちがう、意思の強さがいつも漂っていて……セイントは、この人しかいないって思った」

「それだけか?」

ゼードの声にこもった、とても残酷な響き。

「俺様は、お前のフェアリーエナジーを解析したのだぞ。全てわかっているのだ。言え。まだ理由があるだろう」

「そんな……。も、もういいだろう? ちゃんと答えたじゃないか」


フルールは、明らかに威圧され、脅えていた。
初めて見る表情。

あまりにも弱々しく、小さな動物のように慄える姿。

やだよ、こんなの。

今までの、フルールは。
私の知っているフルールは。

どれほど強くて大きな魔物にも、決して怯んだりしなかったのに。


ばちん、と。音がして。
私の口元のすぐそばで、魔人の指先に宿った黒のエナジーが弾ける。
高圧の電流で機械がショートするときのような熱と破裂音。

「……っひぅ…!!」

不覚にも、脅えの声を漏らしてしまう私。
 
その私の声に弾かれるように、フルールは顔をあげて訴える。


「ま、待て! これ以上ユキを傷つけないでくれっ。言う……。言うから……」

目をぎゅっとつぶって。
そして、覚悟を決めたように。

フルールは、打ち明けた。

「僕は、僕は……、ユキに、恋をしたんだ……」

震えながら、言葉を詰まらせながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。

「本当は、ユキを好きになってしまったから……。……それで、彼女をセイントに選んだ……。少しでも、いっしょにいたくて。同じ時間を過ごしたくて……。それを……僕は……」

そしてガクリと肩を落とした。

「……でも、それが……こんなことになって……しまうなんて……」


それ以上は言葉にならず、ついにフルールは嗚咽を漏らし始めた。


「……フルール……」

私は、胸がいっぱいになった。

ああ、こんな風に拘束されて吊されていなければ。

私の思いを、伝えるのに。

嬉しいよ、って言ってあげるのに。

今すぐ駆け寄りたい。

ありがとうって言いたい。
選んでくれて、ありがとう、って言いたい。

私を好きになってくれて、ありがとう、って言いたい。


いっぱいいっぱい、抱きしめて。

『私も、フルールが大好きだよ』って、言いたい。


けれど。現実は。
 
泣きながらうつむくフルールの前で、私は無力で。
傷ついた体で身動きもとれず、吊るされているばかりで。


「ふふ。そうか。では妖精、上手に言えたご褒美だ」

「え?」

「愛する娘の、こんな姿は見たことがなかったであろう?」

ゼードの言葉に、フルールが顔を上げる。

次の瞬間、ゼードは私の身体に向けて、その長い、爪の生えた手を伸ばしていた。

暗い教室。黒い、霞のような明かり。
その真ん中で、聖なる布が、引き裂かれる音が轟いた。そして。

フルールの目の前で、私は、灼けて朽ちかけていた上半身のコスチュームを剥ぎ取られていた。

「……え……。ユキ、そんな……」

汗に濡れた胸が外気によって冷やされることで、目で確認するまでもなく、私は自分の胸が露わになっていることを知った。


「いやぁああああああああっ!」


「くくく。友に優しく、意思の強さが漂う女か。たしかに、セイントにはふさわしい」

愉快でたまらぬ、といった様子で私達を嘲笑う。

「だが結局のところ、女そのものに惚れ込んだから、というわけだな? 妖精フルールは、とんだ色ガキだったというわけだ」

けれどもそんなゼードの嘲りの言葉も、もう耳に入ってこない。

私の頭の中は、完全に真っ白だ。

私の胸は、今、好きな男の子の前で、
無理矢理に剥き出しにされてしまっているのだから。

上半身の全てが、裸だった。

汗の、匂いがする。
自分の、汗の匂い。

イヤだ。こんなの。

大好きなフルールの前で、こんなの。

「妖精フルール。どうした。見てやらぬか。貴様の愛するセイントの、露わになった姿を」

私たちは、震えていた。

悔しさで、心臓が、ドクンドクンと鳴り続けている。

フルールは半裸の私から目をそらして、見ないようにしてくれていた。

今、両手を拘束されて吊るされた私を見ているのは、ゼード。
私の服を剥ぎ取った、卑劣な魔人。

「……っ」

唇を噛みながら、喉の奥から声をしぼり出す。

「見ないで」

震えて、消えてしまいそうな声で。それだけを。

それが、今の私の精一杯。
悔しくて、涙が出そうだった。

でも、ぜったい泣かない。泣くものか、と心に誓う。


「恥じることはない。なかなかに良いぞ。胸の先の色が薄いようだが、これはこれで悪くないものだ」

ドクンと、胸が跳ねる。私は慌てて顔を背けて、耐えた。

「どれ」

ゼードの爪が胸の上ですべる。
乳房を持ち上げるようにたゆませて弄び、そのまま胸の先へと。

誰にも触られたことがない乳首を、弾き、いじる。

不快な感覚が、胸から全身へ波のように広がって、鳥肌が立っていく。

私は顔を背けながらも、横目で蔑むようにゼードを睨み付ける。
必死で無言を保ちながら。

屈するもんか。

負けるもんか。

「男の前で裸になったのは初めてか? セイント・ユキ」

屈辱的な質問。

ゼードは私を辱めることで、私とフルールの心を傷つけようとしている。
フルールに絶望と屈辱を与えて、その心を砕こうとしている。

そんな手に、乗るもんか。
最後の最後まで、諦めてたまるものか。

私は答えずに口をぎゅっと結び、両手を拘束する手枷を千切りたくて、力を入れ続けた。


「思っていたよりもそそる胸をしているな。魔界の情婦には遠く及ばんが、堅苦しいセイントにしては悪くない」

クックと、喉の奥で笑うゼード。


「おまえもそう思うだろう、妖精。この人間の娘の美しさ、なかなかのものだ」

下品な笑いを浴びせられて、フルールは、じっと顔を下げたままでいる。

「この身体にも惚れたのかな? 妖精フルール」

俯いて震えながらも、必死に沈黙を守るフルールに代わって私が答える。

「あなたは、最低よ」

私は吐き捨てるように、心からの軽蔑を込めてゼードへそう言ってやった。


その瞬間、私は、焼けるような痛みに舌を焼かれて悲鳴を上げていた。


「……あぐっ? ……っああ…っあああああああああーーーっ!!」

真っ黒な電撃が、私の舌を狙って放たれていたのだ。
 
舌に放たれた黒の電撃は、そのまま暗黒の稲妻へと増幅し、一気に私の全身へと駆けめぐる。

「…う…ぁあ……ああああああああああああああああああああああああああ!」


「ユ、ユキ!」

顔を上げるフルール。

「あ! あっ! っあーーーっ!!」

私は電撃で言葉を封じられて、がくがくと身体が跳ねてしまう。汗が、飛びちった。

ダメ、フルール。見ないで。

こんなところを見たら、フルールが、罪悪感を持ってしまう。

これ以上、あなたの心を傷つけたくない。

そんな。私、負けないよって、言いたいのに。

大丈夫だよって、伝えたいのに。

「言葉に気をつけろと言ったはずだ、セイント」

指先からの黒の電流で、私の肉体ごと精神を灼くゼード。

「……うっ……ぅうっ……あ……ああっ、あああああああああああああああっ……」

消化器官までを闇のエナジーで蹂躙され、ひたすら自らの悲鳴を聞かされる。

今度こそ、狂ってしまうかもしれない。いっそ、今すぐ心臓が止まってしまえば、この地獄から解放されるのに。

そんな破滅の予感が頭をよぎったとき。

すすり泣く声とともに、フルールが許しを乞う声が聞こえた。

「……やめてくれ、魔人……。……もう、僕達の負けだ。それを認めるから……」

そのフルールの言葉に、ゼードが黒のエナジーの放出を止める。


「……かはっ」

血が混じった唾液を吐きつつ、脱力して。私はうなだれた。
ゼードによる肉体の責め苦からは解放されたけれど、精神は絶望に落とされる。

何故。どうして、フルール……。

あなたと私は、2人でひとつの戦士。

そんな絆で結ばれていたはずなのに。
あなたが負けを認めてしまえば、それは私にとっての負けでもあるというのに。

「全部、おまえの、言うとおりにするから……。小瓶を、開けるから。だから、もうユキをいたぶるのはやめてくれ……」

愕然とする私の前で、魔人が勝ち誇る。

「くふふ。小僧。ようやくその気になったか。やはり、お前達 妖精にはこれが一番効くな」

魔人がくつくつと、満足そうに喉を鳴らす。

_________________


そして。
ピシッ、と氷が割れるような嫌な音がして。

教壇の机に置かれた封印の小瓶にヒビが入る。

……ピシ……ッ……キシッ……

破滅の音と共に、小瓶に亀裂が入っていく。

すぐに割れて砕けないのは、やはり魔法の道具だからだろうか。
けれど、いかに魔法の力が働いていても、あのように亀裂が入っていけば、割れて砕けるのも時間の問題だろう。


「使命よりも愛を選択する愚かさと弱さ。それが、お前達の敗因だ」

目の前で起きている事が信じられない思いの私に対し、嘲るように魔人が語りかける。

「今、この妖精は敗北を認めることで、心の奥底で放棄したのだ。己の使命を」

うなだれるフルールの前で、魔人は得意げに解説を続ける。

「魔物を封じる自らの使命よりも、愛する者の生命を守ることを選んだのよ」

そして、亀裂が入った小瓶を指さし、勝ち誇った。

「見るがいい、このひび割れた封印の小瓶を。まさに今の妖精の小僧の心そのもの。やがて封印は瓦解し、瓶に閉じこめられていた魔物達が解放されるというわけだ」

その魔人の言葉に、私は青ざめる。

解放される?
これまで封じ込めてきた全ての魔物達が?
やがて、この場に?

「……そんな……嘘……」

絶望。圧倒的な、恐怖。
呼吸が乱れ、剥き出しになった乳房が上下にブルブルと揺れる。けれど今の私はそれを隠すことすらできない。


「ふふ。では、前祝いといこうか。妖精。愛した女の裸を、お前に与えてやる」

両手を上げて動けない私のおへそに、魔人は指を当てた。そのまま、ゆっくりとその指を下へ下ろしていく。青いスカートの布にその指をかけ、ゼードは言った。

「見ろ」

魔人の言葉に、私は何が起きるのかを理解する。

「…い、いや……っ……いやぁっ……!」

「ゼード、やめろぉっ!」

私達の制止の声にかまうことなく、悪逆の魔人は一気に、スカートの中の下着すらもまとめて引き摺り下ろした。

濃霧のような暗黒のエナジーが支配した教室の中で、露わにされてしまったのは、私の、誰にも見せたくない……。

じっとりと湿った、女の子の部分だった。

_________________

「はっはっは。セイント・ユキも、この部分はそこらの小娘と大差ないな!」

ゼードの鑑賞の言葉が、夜の教室に響き渡る。

「 いや、しかし……この陰毛の生えぐあいは悪くないぞ。うっすらと、つつましく! じつにそそるではないか!」

耐えなくちゃいけないのに。

フルールを悲しませたくないのに。
罪悪感で、苦しめたくないのに。

そんな私の意志を、私の唇は、喉は、あっさりと裏切った。

「いや、いやぁああああ! やめてぇ……! ……見ないでぇええ……」

その私の懇願に構うことなく、ゼードの指はバリバリと残る聖衣が引き裂き、剥がしていく。

腕を守るのロングの手袋も。脚のブーツも。
もはや効力を失った聖衣の残骸は、魔人の爪先によって紙くずのように散らされてしまう。

身体を覆う布地は見る間に失われ、私は全裸にされていく。

「……やめて、もうこれ以上は……ダメ……! ダメなの……!!……許して……お願いだから、もう……やめてぇっ!!」

ついに。私の口から屈服と懇願の言葉が吐き出される。

もう限界だった。肉体も。精神も。
ひとたび決壊すれば、あとは止まらなかった。


堪えていた涙がボロボロとこぼれおちる。

「……ひっ…………ひっ……。……やめてぇ……もう……やめて…」

口からは、ぶざまに嗚咽が漏れ、泣き声と許しを乞う言葉が溢れて止まらない。

「………やぁああ……、もぅ…いやぁ、………。…やめて……………。……お願い……します……、もう……許して………くだ……さい……」


その私を見下ろしながら、フルールへと見せつけ、狂ったように笑いこけるゼード。


「はひゃぁあああーはははははははははははははははははははっははははははははははははっははははははははははっはははっははッ!!!」

笑う。嗤う。
ひたすらに、悪逆の魔人は嘲笑と哄笑の中で悶え喜び、勝ち誇る。

「……はははははぁ…! どうだぁ! 見るがいい、妖精! おまえのセイント・ユキが、ついに泣いて許しを乞い始めたぞ! 俺が、この聖戦士の……身も心も、完全に……裸にしてやったのだ!」


___________________________________________

 

闇に支配された教室に漂う香りは、私の、身体の匂いだった。

いつも使っているボディーソープと、ほんのりと混ざる汗の生々しさ。

夏休みの前は、毎日 通っていた学舎。

今、私は、この大切な思い出の場所で、裸のまま吊るし上げられている。

もう、ダメだった。

エナジーは、ほとんど残っていない。


もし、今、ゼードが暗黒の魔剣を私に振り下ろしたなら、耐えることはできないだろう。私の体は、包丁で野菜を切るように、たやすく両断されてしまうに違いない。

つまりは、もう抗う力は残っていなかった。

けれど、魔人がそのようなあっさりとした終わらせ方をするつもりがないことは明らかだった。


これから、セイントとしての最後の時間がやってくる。

髪の色は、もうすぐ、青から黒へと変わるだろう。

私を聖戦士に導いてくれた小さな妖精の男の子も、今はいない。

フルール。
彼は魔人の闇の魔法によって、人間の少年の身体にさせられていたから。

今、彼は、私の隣に移動させられて、私と同様に手枷と鎖の魔道具に拘束され、全裸で天井から吊されている。


私たちは、二人並んで、ゼードに鑑賞されているのだ。

吊り下げられるとき、ゼードによってセイントのコスチュームは破り捨てられ、脱がされた服は闇のエナジーに焼かれて、灰になってしまった。頭にだけ、セイントのサークレットが残されているのは悪意によるものだろう。

かつて戦士だった名残をひとつだけ残しておくことで、辱めを与えているのだ。


闇に支配された夜の教室の床や壁、天井のあちこちに、ゼードが召還した特大の魔妖虫……魔界の夜光虫が蠢いている。

魔の虫達の身体の表面で光る丸いレンズのような何か。
それらが放つ光によって、三人の男女が妖しくライトアップされている。

暗黒の鎧に身を包んだ、悪逆の強者と。

吊り下げられた、虜囚の少女と少年。
裸の、私たち。

_________________

闇の魔人は無言で歩み寄り、フルールの足の間にある彼のペニスを指でつまんだ。

エナジーを解析され、体は魔人の意のままとなったフルールのそれは、少年自身の意志とは関係なしに屹立していき、やがて完全に勃起した。

その出来上がりに満足げにうなずきつつ。

魔人はもう片方の手で、私の方へと手を伸ばし。
私の脚の間にある大切な割れ目へと指を押し当てた。

秘所の具合を確かめた後、闇の魔法陣から召還した肉色の妖虫をつまみあげ、その分泌液を割れ目の中に塗り込んでいく。

ああ、そうか。

私は理解する。
この魔人は、完全に勝とうとしているんだ。

私のエナジーが尽きて変身が解除されるのを、自然の時の中で待とうとはしていない。

魔人は、それを、自分の手で行いたいのだ。

神聖な儀式をとりおこなうような厳かささすら漂わせて、魔人はその指先にピンク色に光る魔力を灯し、私とフルールの身体に何やら得体の知れない紋様を描いていく。


先ほどまではしゃべりすぎるほどに饒舌だった魔人が、今は無言を保ち続けている。

私達があげる、嗚咽の呻きを。鼻をすする音を。悲嘆の叫声を。
そのひとつをも聞き逃すまいと、魔人は自身の息すら殺している。

だから、教室に響くのは。

「……ゥ………ゥア………ッ…」
「…………ァ……ハゥ………ッ…」

いやらしい魔術の技で身体を鋭敏にされていく、私とフルールの声にならない声だけ。

_________________

吊るされたまま、身体に淫らな処置を施されながらも。

私たちは、心を無にしようとした。

泣いても。叫んでも。
この魔人を喜ばせるだけだとわかったから。


ならば、せめて。

心を殺して。死んだようになって。
人形のように無抵抗を決め込んで。

もうこれ以上は、楽しませてやらないと。

私とフルールは、言葉にせずに、
目と目で互いの意志を確認して。

『 命は奪われても、心までは好きにさせない 』

ふたりでそう決めて、そうしようとしたけれど。


でも。それは、あまりにも他愛のない、儚い取り決めだった。

月のない暗黒の夜。

みんなと過ごした思い出の教室の中に、
一人のセイントと、一人の妖精の声が響き始める。

ひとたび、床の上に降ろされて
互いの肌を会わせた後は、止まらなかったのだ。

愛し合っている二人だったから。

「……あ……あぁ……フルール……ああ、フルール……」
「ユキ……ああ、ユキ……」

心が死んだような表情を取り繕って、無言の人形を決め込んでいられたのは、吊り下げられて鑑賞されていたときまで。

床の上で体を重ねた後は、
ふたり様々な想いが一気にこみ上げてきて。

身体の温かさを。やわらかさを。湿り気を。
全身の皮膚で、互いにそれを求めようとして。

火のような、吐息に触れて。
蜜のような、唾液にまみれ。

いっしょに、嗚咽しながら。
泣きじゃくりながら、互いの体をこすりつけ合って、求め合うしかなかった。

「……あぁ……あああああああーーっ、あーっ、ああああああーっ」
「……うぇえええ、……うぇええん、……ひっ……ひっ…、ごめん、ごめんよぉ………」

ゼードの前で。

私とフルールは。

互いの涙を舐め合い、許しに求め合いながら、
慰め合いながら、ひたすら唇を重ねて貪り合った。

指で互いの秘所をまさぐりあい、肉の愉悦に酔いしれた。

声に混じって響くのは、生々しい、互いの体液がかき回される水音。

暗い情欲。
 
私達は、ひたむきに舌を絡ませ、
唾液を交換し、脚を絡ませ、腰を打ちつけ合う。

確定した絶望の未来を前に、
ひたすらそれから目を背けて、刹那の快楽に堕ちる。

それしか残されていなかった。
だからせめて、楽しみたいと思った。

先に投げかけられた魔人の言葉。

『じきに、おまえ達に封印された魔族達が全て開放される』
『残された時間は、あとわずかだ』
『せいぜい、最後の甘いひとときを過ごすがいい』

それを、そのまま受け入れて。

ならば、地獄に堕ちる前に、愛する人と求め合いたいと思った。

好きな人の中に、逃げ込みたかった。

憎むべき敵を前に痴態を晒してでも、ただただ互いを慰めたかった。
数瞬でも数秒でも、恐怖を忘れたかった。

完全なる、敗北。

闇の魔人ゼードよって、今、それはもたらされた。


セイント・ユキと妖精フルールの間で交わされた守護契約が綻び、瓦解して。

ふたりの体に描かれた淫らな紋様から、光のエナジーがこぼれて闇の中へと飲み込まれてゆく。

聖戦士と妖精の、終焉。

エナジーの大放出が、強制執行されてしまったのだった。

 
___________________________________________


ぴきり。ぴしり、と。

音がして。
机の上に置かれた、封印の小瓶に亀裂が入る。

小さな勇者の心は、完全に砕けてしまったから。

魔物を封印した、妖精の小瓶は、
間もなく完全に割れて壊れてしまうだろう。

小瓶の中に閉じこめられていた魔物達は蘇り、
復讐心に猛り狂いながら自分達を封印した者達の姿を求めるだろう。

彼らの目に映るのは、聖戦士と妖精の力を失った裸の少女と少年。
闇の中で泣いて震える哀れな獲物。

その柔らかい肉は、魔物達の格好の餌食となるに違いない。

暗黒の魔人はそれを、愉悦とともに眺め続けるのだ。

これから先、少女達を待ち受けるのは気が遠くなる程の、長い時間におよぶ魔族達による嗜虐の狂宴。肉の地獄。

敗北の聖戦士と妖精は、魔界へと連れ去られ、数多の魔物達によって嬲りぬかれる。

狂うことすら認められず。
死すら許されず。

闇の魔法によって、幾度も蘇生させられて。

果てすら見えない、
汚辱にまみれた永劫の中で、
少女達は悶え続けることになる。


___________________________________________


これから始まる、破滅の始まりを前に。

私とフルールは契りを結ぶ。

どれほどの地獄に堕とされても、
心は共にあることを願って。

愛する者と身体を重ねた、
この瞬間だけは忘れないことを誓って。


___________________________________________


【終】